遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その58  『ルス、闇を照らす者』 :  チリのケース その2 − チリの911から36年、アメリカの911から8年

アメリカの911については常に話題となっていますし、私は見ませんがテレビなどで特番も組まれているでしょうから、最後に少しふれるだけとします。それより今回強調したいのは、9月4日付け 『翻訳家 山岡朋子さん その55 『ルス、闇を照らす者』 : チリのケース − もうひとつの911』 で紹介しました、チリの911です。36年前、即ちアメリ911から28年前の今日南米チリで起こったクーデターのこと。ウィキペディア Golpe de Estado del 11 de septiembre de 1973 および チリ・クーデター 参照。


この日抹殺されたのは、当時のチリ共和国大統領であった Salvador Allende Gossens さん (写真) および兵士 (民間人も?) だけではなく、チリが民主的に選んだ政府です;


出典: http://www.salvadorallende.com/

ウィキペディア 「サルバドール・アジェンデ」 - 死去: 1973年9月11日 より抜粋


−−− 共産主義国は暴力革命によってしか生まれない」と認識し、また共産主義の不当性の宣伝材料としてきた米国にとって、選挙によって選ばれたアジェンデ政権は自説の正当性を揺るがす存在となった。リチャード・ヘルムズCIA長官は、「おそらく10に1つのチャンスしかないが、チリを救わなければならない!……リスクはどうでもいい……1000万ドル使え、必要ならばもっと使える……経済を苦しめさせろ……」と指示し、どんな手を使ってもアジェンデ政権を打倒する姿勢を見せた。合衆国などの西側諸国は経済封鎖を発動、もともと反共的である富裕層(多くは会社・店などを経営している)は自主的にストライキを開始した。さらにCIAは物流の要であるトラック協会に多額の資金を援助しストライキをさせた外、政府関係者を買収してスパイに仕立て上げた。


加えて、アジェンデ政権の経済的失政も苦境に拍車を掛けた。企業の国有化や社会保障の支出拡大と言った経済改革は、インフレと物不足の状況を加速させた。このため、チリ国内では物資が困窮し、社会は混乱した。


クーデター



これらの混乱はしかし、アジェンデ政権の誘導もあって、その真偽を問わずチリ国民の多くを占める労働者からは、反対派による陰謀と認知された。『敵の攻撃』は結果として労働者の団結を促進し、1973年の総選挙で、人民連合は大統領選より更に得票率を伸ばした。こうした状況に失望した反アジェンデ勢力は、ホワイトハウスの支援と黙認の下で、武力による国家転覆を狙うようになった。


6月には軍と反アジェンデ勢力が首都のサンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した。だが、9月11日に、アウグスト・ピノチェト将軍が率いる軍が再度大統領官邸を襲撃した(チリ・クーデター)。アジェンデはクーデター軍と大統領警備隊の間で砲弾が飛び交う中、最後のラジオ演説を行なった後 (下にYouTube動画を貼り付けます) 、クーデター軍に殺害された(自殺という説もある)。ラテンアメリカで「9・11」というと、2001年のアメリカ同時多発テロ事件ではなく、1973年のチリクーデターを指す事も多い。


死後



チリクーデターの結果、クーデターの首謀者であったピノチェトが大統領に就任し、チリはピノチェトによる軍事独裁下に置かれることになった。その後16年の長きに亘る軍事政権下で、数千人の反体制派の市民が投獄・処刑された。又、ピノチェトは、ミルトン・フリードマンを代表格とするアメリカのシカゴ学派の経済学者を登用し、後に新自由主義と呼ばれる市場原理主義政策を実行した。その結果、一時は「チリの奇跡」と呼ばれる程に経済は回復したかに見えた。しかし、結果的には一部の富裕階級が利益を得ただけで、アジェンデ時代以上に大きな社会格差と貧困をチリ社会にもたらした。チリでは、ピノチェト時代の16年間が「失われた10年」と目されている。


この間、ピノチェト将軍の後見人であったホワイトハウスは、1989年にベルリンの壁が崩壊して冷戦が終わった事で、「南アメリカの共産化による自国への脅威」が消えた直後の1990年3月まで、ピノチェトの軍政による酷い人権侵害を見て見ぬ振りをし続けた。 (以下略)


国内外の評価



アジェンデの銅像チリ国内ではピノチェト同様、評価は未だに二分されている。ピノチェト支持者にとっては左傾化により国に混乱をもたらした唾棄すべき存在である一方、ピノチェトの圧政に苦しんだ左派の人間にとっては今でもヒーローである。実際、2006年12月10日にピノチェトが死去した際には、チリ国内外で左派チリ人がピノチェトの死を祝うデモを行っていたが、その随所でアジェンデの肖像画が掲げられていた。これにより、チリの左派の間では、生前のアジェンデ政権を直接知らない若い世代の間でも、彼の人気が絶大であることが改めて示された。


また、カラカス、ハバナ、パリ、ボローニャマドリッドマナグアモンテビデオなど、中南米や欧州諸国の各地にアジェンデの名前を冠した通りや広場などが続々と建設されている *1 事例は、民主主義を通じて社会主義を実現しようとしたアジェンデに対する国際社会の評価の一例と見ることができるだろう。

上掲引用中 「最後の演説」 とは;



Titulo = El último discurso de Salvador Allende

これは9月11日クーデター勃発後、アジェンデ大統領がラジオを通じて行った何回かの発信の最後のもの。死を覚悟して行われた演説の全文を紹介します;

http://www.abacq.net/imagineria/mensaje.htm
Salvador Allende : Ultimos mensajes より抜粋
Santiago de Chile, 11 de septiembre de 1973
(このサイトに同日の全ての演説が収録されています。)


9:10 A.M. Radio Magallanes


Seguramente, ésta será la última oportunidad en que pueda dirigirme a ustedes. La Fuerza Aérea ha bombardeado las torres de radio Portales y radio Corporación. Mis palabras no tienen amargura sino decepción. Que sean ellas un castigo moral para quienes han traicionado el juramento que hicieron: soldados de Chile, comandantes en jefe titulares, el almirante Merino, que se ha autodesignado comandante de la Armada, más el señor Mendoza, general rastrero que sólo ayer manifestara su fidelidad y lealtad al Gobierno, y que también se ha autodenominado Director general de carabineros. Ante estos hechos sólo me cabe decir a los trabajadores: ¡Yo no voy a renunciar!


Colocado en un tránsito histórico, pagaré con mi vida la lealtad al pueblo. Y les digo que tengo la certeza de que la semilla que hemos entregado a la conciencia digna de miles y miles de chilenos, no podrá ser segada definitivamente. Tienen la fuerza, podrán avasallarnos, pero no se detienen los procesos sociales ni con el crimen ni con la fuerza. La historia es nuestra y la hacen los pueblos.


Trabajadores de mi patria: quiero agradecerles la lealtad que siempre tuvieron, la confianza que depositaron en un hombre que sólo fue intérprete de grandes anhelos de justicia, que empeñó su palabra en que respetaría la Constitución y la ley, y así lo hizo. En este momento definitivo, el último en que yo pueda dirigirme a ustedes, quiero que aprovechen la lección: el capital foráneo, el imperialismo, unidos a la reacción creó el clima para que las Fuerzas Armadas rompieran su tradición, la que les enseñara el general Schneider y reafirmara el comandante Araya, víctimas del mismo sector social que hoy estará en sus casas esperando con mano ajena, reconquistar el poder para seguir defendiendo sus granjerías y sus privilegios.


Me dirijo a ustedes, sobre todo a la modesta mujer de nuestra tierra, a la campesina que creyó en nosotros, a la obrera que trabajó más, a la madre que supo de nuestra preocupación por los niños. Me dirijo a los profesionales de la patria, a los profesionales patriotas que siguieron trabajando contra la sedición auspiciada por los colegios profesionales, colegios de clases que defendieron también las ventajas de una sociedad capitalista.


Me dirijo a la juventud, a aquellos que cantaron y entregaron su alegría y su espíritu de lucha. Me dirijo al hombre de Chile, al obrero, al campesino, al intelectual, a aquellos que serán perseguidos, porque en nuestro país el fascismo ya estuvo hace muchas horas presente; en los atentados terroristas, volando los puentes, cortando las vías férreas, destruyendo los oleoductos y los gaseoductos, frente al silencio de quienes tenían la obligación de proceder.


Estaban comprometidos. La historia los juzgará.


Seguramente Radio Magallanes será acallada y el metal tranquilo de mi voz no llegará a ustedes. No importa. La seguirán oyendo. Siempre estaré junto a ustedes. Por lo menos mi recuerdo será el de un hombre digno que fue leal con la patria.


El pueblo debe defenderse, pero no sacrificarse. El pueblo no debe dejarse arrasar ni acribillar, pero tampoco puede humillarse.


Trabajadores de mi patria, tengo fe en Chile y su destino. Superarán otros hombres este momento gris y amargo en el que la traición pretende imponerse. Sigan ustedes sabiendo que, mucho más temprano que tarde, de nuevo se abrirán las grandes alamedas por donde pase el hombre libre, para construir una sociedad mejor.


¡Viva Chile! ¡Viva el pueblo! ¡Vivan los trabajadores!


Estas son mis últimas palabras y tengo la certeza de que mi sacrificio no será en vano, tengo la certeza de que, por lo menos, será una lección moral que castigará la felonía, la cobardía y la traición.


私が特に感銘を受け強く共感する言葉は、文中の強調部分 "El pueblo debe defenderse, pero no sacrificarse. El pueblo no debe dejarse arrasar ni acribillar, pero tampoco puede humillarse." ですね。アジェンデ大統領の政治的信条については不勉強で詳しくないのですが、この言葉から、このひとが真に尊敬出来る為政者であったと評価出来るとおもいます。


なおアジェンデ大統領の死を悼み、1971年ノーベル文学賞を受賞したチリの詩人 パブロ・ネルーダ(ウィキペディア) さん *2 がアジェンデ大統領の死後3日後に書いた弔辞も同じサイトに掲載されています;

http://www.abacq.net/imagineria/001.htm
Pablo Neruda : Allende
Confieso que he vivido. Chile, 14 de septiembre de 1973


これも長い文章なので引用は控えます。この偉大な詩人は殺されたアジェンデ大統領の盟友でもあり、チリの歴史の流れを総括しながらホセ・マヌエル・バルマセーダとサルバドル・アジェンデと云う二人の偉大なチリ大統領を比較・評価し、同じ様な形で死に追いやられたことを非難しています。長年馴染みの無い文学的な表現が多く読むのに相当ホネが折れましたが、恐らくこの文章はアジェンデ大統領の目指したものを最もシンプルに表していると思います。


なお同日の経緯詳細は以下サイトに時系列に整理されています;

http://www.tvn.cl/noticias/especiales/septiembre73/
Televisión Nacional de Chile
"Resultado de búsqueda1.11 Septiembre 1973"


ここまでが、力不足でもの足りませんがチリ911の紹介です。この舞台では、間接的とはいえアメリカがチリの 『民主的に選ばれた社会主義政権』 を叩き潰しましたが、その28年後の同日、皮肉なことにアメリカが悲劇の舞台となりました。 『同時多発テロ』 と呼ばれていますが、真相は闇の中。亡くなられた方々には何の責任もありませんからご冥福をお祈り申し上げるが、世界中でさんざん殺りく行為を繰り返して来た、そして今この瞬間にも繰り返しているアメリカと云う国家となると、到底素直に弔意は示せない。チョムスキー教授の言葉を借りれば、 「それまで外に向けてきた銃口が初めてアメリカ本土に向けられた」 だけのことですから。撃ち続ければ、そりゃいつかは撃ち返されるのは当然。


オバマ大統領は今年4月、9月11日を「奉仕と追悼の日」に指定、911を対テロという文脈だけでなく、手を携えて困難を乗り越える相互扶助の精神が結実した日としてとらえる動きが盛んになっている』 (この部分は9月10日14時4分配信 時事通信 「助け合いの日」へ=11日、同時テロ8年−米」へ=11日、同時テロ8年−米 より抜粋) とのこと。内向きに美辞麗句並べているだけで、自分達が 「外に向けている銃口」 について認識していないことが問題、と感じています。以下幾つかの記事を拾うと;

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090910-00000079-san-int
9・11米中枢同時テロ あす8年 進む「対テロ」再定義 世論の二極化招く
9月10日7時57分配信 産経新聞
■米・ランド研究所 ムニョス氏に聞く


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090910-00000087-san-int
強まるアフガン再増派 給油活動撤収なら代案… 米、日本に圧力も
9月10日7時57分配信 産経新聞



http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090910-00000012-jij-int
オバマ外交に77%が支持=アフガン・イラン問題では米と差も−欧州
9月10日5時40分配信 時事通信


 課題別の評価を見ると、オバマ政権が対テロ戦の主戦場と位置付けるアフガニスタンの情勢については、欧州では63%が悲観的なのに対し、米国では56%が楽観的だった。
 また、イランの核兵器開発阻止に向けた外交交渉が不調に終わった場合の対応では、欧州では53%が「外交圧力を強め、武力行使は避ける」と回答。米国では47%が「武力行使の選択肢を保持する」と答え、米欧での認識の違いが鮮明になった。 


私の立場を明確にするなら、特に外交・グローバリゼーション展開に関して反米かつ嫌米です。中南米での前歴を認識していれば、嫌悪感を抱かざるを得ません。しかし他方、会社員時代に知りあったアメリカ人は、ごく一部の例外 (一部の弁護士) を除き、皆明るく善意に満ちた気のいい友達です。アメリカ政府とのギャップは理解に苦しみます。民主主義 (ウィキペディア) の定義が 『民主主義として把握する場合には、最終的には多数決によるとしても、その意思決定の前提として多様な意見を持つもの同士の互譲をも含む理性的対話が存在することをもって正当とする点で異なると主張される。』 だとするなら、民意が反映されているのか大変疑問だし、世界の中でのアメリカは民主主義の国では無いことは明らか。


以下、アメリ911犠牲者のご遺族についての記事を引用します;

◇連載 揺れる星条旗への思い:「9・11」から8年(毎日新聞
・ 上)愛国心強制に反発も(9月8日) / 中)国への不信感広がる(9月9日) / 下) 事件の再検証求める遺族ら(9月10日)


http://mainichi.jp/select/world/news/20090910ddm007030056000c.html
揺れる星条旗への思い:「9・11」から8年
/下 事件の再検証求める遺族ら ◇「娘の死、戦争に利用」
毎日新聞 2009年9月10日 東京朝刊


−−− オコーナーさんは、自由を尊び、移民など他者にも寛容で、説明責任を重視するのが本来の米国だと信じている。「ブッシュ(前大統領)時代の米国は不道徳なことを続けた。本来の米国ではない」。米軍がアフガン、イラクから撤退し、キューバグアンタナモ収容所が閉鎖される日まで「ブッシュ時代」は終わらないという。 (以下略)


上掲中青文字で強調した部分が、多分大半の 「善良な」 アメリカ人が信ずる自国アメリカの姿でしょう。しかし残念なことに、その 「善良な」 アメリカ人の更に大半は情報操作の結果か無関心の結果か、自国のポジションを全く把握していない。政府を信じ切っているのか、単に馬鹿なのか−−− ご遺族の中には、もっとテロ国家を罰しろ、思い知らせてやれと云う方向へ行く人達もおりますが、お気持ちを考えれば第三者としてそれを批判することは出来ません。むしろ紹介されているオコーナーさんたちはまだマイノリティーなのかも。


なおオコーナーさんのフルネームは Donna Marsh O'Connor さん、運営されるサイトは、私はよく中を見ていませんが Peaceful Tomorrows の様です。ところでこのサイトのトップページに、広島原爆記念日である本年8月6日付け被爆者および日本国民充て公開質問状とメッセージ "An Open Letter to the Hibakusha and All Japanese People" が公開されていますね。当然対応はされているのでしょうね。(私は不注意のため昨日まで気付きませんでしたが) 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会 からの回答については、 2004年09月07日付けのもの が確認出来ています。どちらの組織も、誰よりも発言する権利を有する訳ですから、地道ですが大きなうねりになるとよいですね!!


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*1:"Una calle Salvador Allende" 参照

*2:ウィキペディアによると;

--- 1970年の大統領選挙では、一時共産党から大統領候補に推されるが辞退し、社会党のサルバドルール・アジェンデが左派統一候補として立候補し当選した。その結果、チリは世界で初めて民主的に選挙によって社会主義政権ができた。ネルーダはアジェンデ政権から駐仏大使を任命され、在任中にノーベル文学賞を受賞したが、ガンに侵されたため1972年に大使を辞任しチリに帰国した。

しかし翌1973年9月11日にアジェンデ政権がピノチェトのクーデターによって滅ぶと、軍事政権はネルーダの家に押し入り、調度品を破壊し蔵書を破り捨て、徹底的に家を破壊した。ネルーダはこのことで絶望し、病状は急激に悪化したといわれる。クーデターの12日後、ネルーダは危篤状態に陥り、病院に向かったが、途中の軍の検問で救急車から引きずり出されるなどして、病院に着いたときには亡くなっていた。「彼は病気で死に、クーデターで魂を殺された。彼は二度死んだのだ」とチリでは言われている。