遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その55  『ルス、闇を照らす者』 :  チリのケース − もうひとつの911

70年代に行われた殺人・拷問やら誘拐など人権侵害に関し、南米チリでも大規模な逮捕者が出たことが報道されました;

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090902-00000004-cnn-int
ピノチェト軍政時代の元兵士ら約120人に逮捕状 チリ
9月2日13時15分配信 CNN.co.jp  より抜粋


チリ政府が民政復帰後に実施した調査で、軍政時代の左翼狩りで2300人近くが行方不明になり、約3万人が軍に拷問されていたことが判明した。今回逮捕状が出た容疑者の約半数は、軍政時代の罪状を初めて指摘されている。


詳細は9月2日付け[http://www.elpais.com/articulo/internacional/Justicia/chilena/procesa/120/represores/dictadura/Pinochet/elpepuint/20090902elpepuint_6/Tes:title=EFE記事 "La Justicia chilena procesa a 120 represores de la dictadura de Pinochet" 参照。正に山岡朋子さん (横山朋子さん名) 翻訳の 『ルス、闇を照らす者』 チリ版と云えそう。アルゼンチンのケースと少し異なるのは、アメリカの大規模な介入が確認されていること。

ウィキペディア「チリ」 より抜粋


チリ革命とピノチェト時代


−−− 1970年の大統領選挙により、人民連合のアジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生した。これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であった。アジェンデは帝国主義による従属からの独立と、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復、同時期にペルー革命を進めていたペルーのベラスコ政権との友好関係確立などにはじまり、鉱山や外国企業の国有化、農地改革による封建的大土地所有制の解体などの特筆すべき改革を行ったが、しかし、ポプリスモ的な経済政策は外貨を使い果たしてハイパーインフレを招き、また、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていたアメリカ合衆国はCIAを使って右翼にスト、デモを引き起こさせるなどの工作をすると、チリ経済は大混乱に陥り、物資不足から政権への信頼が揺らぐようになった。さらに、極左派はアジェンデを見限って工場の占拠などの実力行使に出るようになった。


こうした社会的混乱の中で1973年9月11日アメリカ合衆国の後援を受けたアウグスト・ピノチェト将軍らの軍事評議会がクーデターを起こしてモネダ宮殿を攻撃すると、降伏を拒否したアジェンデは死亡し、チリの民主主義体制は崩壊した。翌1974年にピノチェトは自らを首班とする軍事独裁体制を敷いた。 (中略)


しかし、アルゼンチンとボリビア(1982年)や、ウルグアイ(1985年)、ブラジル(1985年)と周辺国が民主化する中で、一向に権力から離れず人権侵害を行うピノチェト軍事政権は国際的な批判を呼び、1988年のピノチェト信認選挙で敗北すると、1989年12月に行われた選挙で、保守で反ピノチェト派の民主主義を求める政党連合=キリスト教民主党のパトリシオ・エイルウィンが僅差でピノチェト派の候補に勝利したことにより、1990年、チリは17年ぶりに民主的な文民政権に民政移管することになった。


下に引用する記事に示されるピノチェットの行動基準は現在のアメリカのものと全く同じにもかかわらず、前者は独裁者、後者は民主主義の旗頭と評価され、後者は決して裁かれないとしたらこんな馬鹿なことはありませんね;

ウィキペディア「アウグスト・ピノチェト」 より関連部分抜粋


−−− ピノチェト政権下では多くの左派系の人々が誘拐され行方不明となった。2004年のチリ政府公式報告書では、死者・行方不明者3197人だが、国際的な推計によれば実際にはもっと多いのではないかともいわれる。また、誘拐・投獄に伴う拷問も広く行われたとされ、新たに建設された強制収容所に送られたり、拷問を受けたりと何らかの形で人権侵害を受けた人々は10万人を越える可能性もあるようである。


1974年、ルーテル教会のヘルムート・フレンツ監督と、カトリックエンリケ・アルベアル司教がピノチェトに面会し、「肉体的圧力(ピノチェトを憚って「拷問」の用語を避けた)」を止めるよう申し入れた。ピノチェトは自ら「拷問のことかね?」と返し、「あんた方(聖職者)は、哀れみ深く情け深いという贅沢を自分に許すことができる。しかし、私は軍人だ。国家元首として、チリ国民全体に責任を負っている。共産主義の疫病が国民の中に入り込んだのだ。だから、私は共産主義を根絶しなければならない。(中略)彼らは拷問にかけられなければならない。そうしない限り、彼らは自白しない。解ってもらえるかな。拷問は共産主義を根絶するために必要なのだ。祖国の幸福のために必要なのだ。」と、拷問を正当化した。フレンツは殺されこそしなかったが、後に国外追放された。


又、海外に亡命したアジェンデ政権の要人を次々に暗殺した。前任の陸軍総司令官であったプラッツも、1974年にブエノスアイレスで殺された。


上掲部分で私が赤文字で強調した部分は、 「共産主義」 を 「アルカイダ」 に読み替えれば、正に先日紹介したチェイニーの言い分そのもの;

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090826-00000003-cnn-int
チェイニー氏、CIA尋問捜査でオバマ氏批判
8月26日12時30分配信 CNN.co.jp  より抜粋


チェイニー氏は、オバマ政権が捜査担当の検察官指名を決めたことで、国土安全保障に関する政権の責任能力に疑念が高まっていると述べ、「(尋問に)関与した人々は感謝に値する。政治色を帯びた捜査や訴追の対象となるには値しない」と明言した。

チェイニー氏はまた、24日に公表された調査報告書の尋問手法で得た有力情報が、国際テロ組織アルカイダに関する莫大な情報の入手につながったことが証明されたと指摘。こうした情報がアルカイダの攻撃を阻止し、人命を救ったとしたうえで、容疑者らが2002年以来、アルカイダ構成員や協力者の拘束でほぼ毎回役割を担っていることが文書で指摘されている、とコメントした。


益岡賢さんのHP からチリ関連のものを紹介・引用しますね;

http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/persons/kh34.html
チリ 一九六四年〜一九七三年 
鎚と鎌が子供の額に焼き印される
ウィリアム・ブルム キリング・ホープ 第34章より
(注:益岡さんご自身が翻訳された著書です)


(翻訳記事の部分は全て割愛、以下は補足部分です)

1973年9月11日。CIAの後押しするクーデターにより、選挙で選ばれたアジェンデ政権が転覆されました。それ以降、政権を握ったピノチェト軍事独裁政権による弾圧・拷問・失踪・殺害が続きました。9/11から23年。


国民の圧倒的支持を得て選挙で選ばれたベネズエラチャベス大統領の転覆を狙うなど、アメリカ合衆国ラテンアメリカ介入政策は続いています。


2006年9月9日。午後6時半から、東京「女性と仕事の未来館」4F第1セミナー室で「もう一つの「9・11」を思う初秋の夕べ:チリの「絵と詩と歌と本」に寄せて」という集会が開催されます。


紹介されているイベントは3年前のものですが改めて以下紹介;

http://www.jca.apc.org/gendai/event/index.html
もうひとつの「9・11」を思う初秋の夕べ
チリの「絵と詩と歌と本」に寄せて


「テロルの9月」―――この悲劇はアメリカ(米国)の独占物ではない。


 1973年9月11日、南米チリで軍事クーデターが起こった。1970年以来3年間続いてきた、サルバドル・アジェンデを首班とする社会主義政権が倒されたのだ。首謀者はピノチェト将軍である。その凶暴さにおいて、ラテンアメリカでも類を見ない「治世」が始まった。虐殺、行方不明、拷問、レイプ、亡命―――数十万のチリ民衆が、それぞれの運命を強いられた。


軍事クーデターと、その後の軍政を背後で支えたのは、もちろん、アメリカだった。その意味でも、この国には、「テロルの悲劇」を独り占めにする資格は、ない。


チリ・クーデターから33年目の秋の一夜、たくさんの「9・11」を想い起こそう。


このような人為的な悲劇のない世界は、どのように可能なのかを考えよう。
チリについて、チリ「9・11」によって象徴される世界について、話し合います。媒介してくれるのは、チリの(についての)「絵と詩と歌と本」です。

媒体として使われた 【チリの(についての)「絵と詩と歌と本」】 には興味がありますので引き続き調べてみるつもり。


最後に、今でも変わらないアメリカの外交政策の本質は、現在進行中のイラクアフガニスタンを見ていてもわかりにくいでしょうから、事実が明らかになりある程度評価の固まっている歴史を学ぶことで明らかになります;


http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/lahist.html
対ゲリラ作戦・クーデター・強制
ラテンアメリカにおける帝国の歴史
ダグ・ストーク
2003年4月2日  よりチリ関連部分を抜粋
ZNet原文  (注:リンクは切れています)


−−− 1970年、チリで、サルバドール・アジェンデ大統領が選出された。米国の内部政策立案文書記録によれば、米国政策立案者たちは、チリがソ連と同盟するかどうかについては特に心配していなかったことがわかる。1970年11月6日に召集された米国国家安全保障会議で、米国大統領リチャード・ニクソンは次のように宣言した。「アジェンデがロシアや中国の助けを借りることができるなら、そうすればよい。けれども、我々はチリが我々の助けを借りることは望まない。実際のものでも見かけ上のものでも」。彼はさらに続けて、米国が主に心配しているのは、「彼[アジェンデ]が自分の立場を教化し、世界に示される図式が彼の成功を示すことである・・・」と述べている。「もし南米の指導者に、チリと同じようにやることができ、利益だけを得ることができると考えるならば、我々はトラブルを抱えることになる」。さらに彼は次のように続けている。「こうした状況を処罰なしにやり遂げることができるなどという印象をラテンアメリカに与えてはならない。このようにすれば安全だと思わせてはならない」。ニクソンは、米国によるアジェンデ政権転覆について説明している。「この問題について、軍事関係に訴えたいと思っている。もっと資金を注ぎ込め。経済的には、アジェンデに経済的な断絶を行いたい。EXIM[米国輸出入銀行]と国際社会が締め付けを強化するようにしろ」。米国国務長官ウィリアム・ロジャースは、米国の「軍はチリの軍と連絡を取り、チリでの米国の立場を強化するようすべきである」と述べた。アジェンデは1973年9月11日にクーデターで追放され、米国が支援する独裁体制が、アウグスト・ピノチェト将軍のもとで確立された。


アメリカは、社会・共産主義イスラムを毛嫌いしている --- と云うよりむしろ極端に恐れていますね。様々なプロパガンダを通じてそれを正当化し、それを考えることなく正しいものと受け入れアメリカの行動を正当化し続ける仕組みが世界に存在する限り、真の人権など保証されませんし平和もあり得ません。アメリカは多様性を尊重する、などと云うことはアメリカ国内に向けて発信しているタワゴトに過ぎず、外に対しては、アメリカに都合がよい限り多様性を許すと公言して行動しているのですから。都合が悪ければそれを潰しても人殺しをしても構わないってワケ。今回紹介のチリは好事例です。