遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その10 林語堂さんのこと 2

前回に続き、林語堂さんの翻訳論について;

山岡朋子さんによる書籍紹介は;

http://shuppan.sunflare.com/tosho/4_sotoha.htm

永田小絵さんによる考察は;

http://www.come.or.jp/hshy/j96/02a.html および
http://www.come.or.jp/hshy/j96/03a.html


厳復の難解な翻訳に対して、翻訳は誰のため、何のためにあるのか、で1930年から引き起こされた論争の論点は、永田さんによると以下2つ;

  1. 魯迅に代表される「思想改革」派
    • 「東亜の病夫」たる当時の中国を振興するためには、たとえ国語を変革しても欧米の近代文明を導入する必要があると考えたのである。そこで「ただ我慢して読んで」ほしいと読者に訴え、読者が徐々にこれを受け入れることで中国語の変革も可能になるのと目論み、「語体欧化」の概念をも提起した。この論調はまさに日本が開国後に体験してきたものと同様である。
  1. 胡適・梁実秋らの「すらすら読める」派
    • これについて永田さんが論じた記事が見つけられませんでしたが、多分翻訳は読み易くなければ存在価値が無い、と云った主張でしょう。


これに対して1932年に林語堂さんは、『翻訳を論ず』を通じて、翻訳を民衆の革命や啓蒙の手段としてではなく、言語芸術の問題としてとらえられた。永田さんによる要約は;

  • 「翻訳を論ずる際にはっきりと意識しなければならないのは、翻訳は一種の芸術であるということだ。芸術の成功はおよそ個人の芸術的才能と、その芸術の分野で精進を積んだことに依存する。その他に芸術を成功させる近道はない。もともと芸術にうまくいく秘訣などあるわけはない。翻訳の芸術が頼るのは、第一に翻訳者の原文の字句と内容に対する徹底的な理解、第二に翻訳者の非常に高度な母語の運用力、つまり達意の中国文を書く能力、第三に翻訳の訓練を積むこと、翻訳者は翻訳の基準と処理の方法について正確な見解があること、である。この三者を除いて翻訳にはいかなる規範も存在しない」


翻訳論はその後も議論・研究され続けているのでしょうが、翻訳の本質的な難しさはこの時代に認識され尽くしたのでしょう。私は、林語堂さんの主張に非常に親近感を感じますね。

山岡朋子さんの愛読書として紹介されている『蘇東坡 上/下』はその林語堂さんの手による作品ですから、山岡朋子さんは蘇東坡のみならず翻訳家としての林語堂さんにも傾倒なさっているのでしょうか。

最後に再び永田さんの記事から抜粋;

  • --- これを訳文に表すには翻訳者自身の文学的素養が問われることになり、原文をまるごと理解し完全に吸収できなければ翻訳はあきらめたほうが無難である。


してみると文学作品の翻訳って、一生かけて修練し続けなければ到底できませんね。

ビジネスの世界では文学的素養は求められませんが、場合によってはそれに近いものが求められる。企業理念やらイメージ広告など。文学と比べられる性質のものではありませんが、企業文化や市場全般などに関する広く深い理解が求められます。

ファンクラブ会長としては、山岡朋子さんにも珠玉の文学作品の初訳・新訳を是非手がけてもらいたい。一方で、日本で未発表であるが山岡朋子さんが本当に紹介したいと思う作品も翻訳し続けてもらいたいですね。