遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その11  ドン・キホーテ

日本語に翻訳されているスペイン文学作品で多分最も有名なのは、セルバンテスドン・キホーテでしょうね。そういえば2005年はドン・キホーテ出版400周年記念で、世界中で記念出版が行われたことも思い出しました。

http://book.asahi.com/special/TKY200711050224.html

翻訳に関してネットサーフィンしてましたら、上掲朝日新聞の記事が目に止まりました。山岡朋子さんに直接関連するものではありませんが、スペイン語の新訳に関することなのでこのブログに掲載することに。

この記事中荻内勝之さんによる新訳についての野谷文昭さんによる考察がありますが、私は全く違った角度から書いてみようかと。

荻内勝之訳 ドン・キホーテ前・後編全4巻 2005年新潮社、挿絵 堀越千秋』のおふたりの名前を見て、昔を懐かしく想い出しました。でも文学のことではありません、フラメンコの唄に関することです。

確か80年代前半に生粋のスペインジプシーの唄い手であるアグヘータスが来日の際、荻内先生がずっと同行され、通訳をなさっておられました。一方堀越千秋さんは確かスペイン在住の画家さんでアグヘータスファミリーと親交があり、堀越さんご本人も『正統派、渋好み』のフラメンコを唄われます。(日本のテレビで紹介されたこともあります)

荻内さんは堀越さんの依頼を受けて通訳をかってでられた、と記憶します。当時荻内さんのことは何も存じ上げませんでしたし、スペイン語でしたら私もわかりますから、物好きなセンセイだなぁ、と思っていたのですが。

ある夜、場所はもう憶えていませんが、どこかの喫茶店の様なところでアグヘータスの生の唄を聴く集いがあり、当然荻内さんも同席されていました。そこで本当にびっくりしたのが、荻内さんがアグヘータスの唄の合間合間でその歌詞を訳されたこと。それも、なるほど、と思わせる粋な日本語で。フラメンコの唄は、短い「コプラ」と呼ばれる歌詞を、ギターなり手拍子なりの伴奏をはさみながら即興で延々と唄うものです。荻内さんは、その短い伴奏の間にうまく訳されたのです。

皆こころから楽しめた集いがハネてから、アグヘータス・荻内さんと何人かのフラメンコ好き(と云うより気違い)達で電車に乗って大騒ぎして帰りましたが、荻内さんが別人に見えましたっけ。

引用記事中の、野谷さんの荻内新訳に関する評価を読んでいて、あ、さすが荻内さん、と思った次第。残念ながらまだ新訳を読んでいませんが、きっとおもしろいでしょうね。堀越さんの挿絵も見てみたい。

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ハナシがあちこちに飛びますが、やはり昔のこと; 学生時代、会田由さん翻訳のドン・キホーテ(たしか筑摩書房の1冊もの)を持っており、何回か読みました。その本は現在手元に無いので、多分卒業時誰かに進呈したのかも。

その本には、著者のセルバンテス本人か、あるいはセルバンテスドン・キホーテに語らせたのか、あるいは会田由さんのコメントだったか記憶が無いのですが、確か翻訳についてこんな意味のことが書かれていました;

  • --- 翻訳と云うものは所詮、ペルシャのかけ毛氈を裏から見る様なものだ。輪郭は何となくわかるが、表の見事な模様やら彩りなど知ることは出来ない ---


何故か何年も経った今でも、前後のコンテクストは忘れてしまったのにこのコトバだけが頭に焼き付いています。

林語堂さんの「忠実・通順・美」、厳復の「信達雅」の基準を引き合いに出すまでもなく、原作の微妙な陰影やら色彩をどこまで再現出来るか、翻訳家の腕の見せ所ですね。荻内新訳はその意味で大変チャレンジングとおもいます。何かを際立たせるために何かを犠牲にするのが現実的なのかも。ドン・キホーテの読み方も、それに求めるものも人によって異なるでしょうし。

指揮者によって、同じ楽譜の音楽でも随分違う、ってのに似てますかね? さて山岡朋子さんはどんな指揮を取られるのか。『ルス、闇を照らす者』で検証出来るとよいのですが。(原著がまだ来ない〜〜〜)