遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その9 林語堂さんのこと 1

http://shuppan.sunflare.com/tosho/4_sotoha.htm

前回に引き続いて、上掲山岡朋子さんエッセイで紹介されている書籍の著者林語堂さんの翻訳に対する姿勢のことを;

私はビジネスの世界に生きておりますから、翻訳論などを掘り下げるガラではありません。海外の取引先とは直接英語なり西語(この2つしか出来ませんので)で行いますが、社内と海外取引先のインターフェイスの立場からすると、意識するとしないとを問わず両方向の翻訳に関わっていることになります。その経験から理解できる範囲で考察することに。

なお前回紹介した林語堂さんの『翻訳の三基準』について今回参照するのは、永田小絵さんが96年に何回かに分けて執筆された『中国近代の翻訳論』です。詳細は以下で参照可能;

出展:http://www.come.or.jp/hshy/j96/02a.html

  • NIFTY−Serveにおける中国(31)【編集部注】NIFTY−Serve中国フォーラム(GO CHINA)の「語言漫談★中国語・通訳・翻訳」会議室を担当してきた永田小絵女史は、長年間翻訳・通訳の現場で仕事の末、現在は東京大学の大学院に日中翻訳論に関する研究を従事している。

まず、前回紹介の林語堂さんの見解の中にもある【厳復の『翻訳の三つの難しさ』】について;

永田さんによると、

  • 中国近代の翻訳理論は1901年に出版された厳復の翻訳になる『天演論』(1 )の序文に端を発する。厳復はこの短い序文の中で、現代にいたるまで人口に膾炙することになる「信達雅」の概念を提起した。 次にその一部を引用する。 「翻訳をするうえで難しいことは、『偽らぬこと』『意を尽くすこと』『文章表現の美しさ』の三つである。偽らぬことだけでも非常に難しいが、原文への忠誠を求めることで訳文が分かりにくくなるなら、翻訳しても訳さなかったのと同じだ。…中略…  易経に曰く、修辞は忠誠であるべきである。孔子曰く、文章は十分意を尽くす事が大事だ。表現が美しくなければ、広く行き渡ることはない。この三者は文章を書くための正しい道筋であり、翻訳された文章にとっても、最も望ましい姿でもある。したがって、原文を偽らぬことと意を尽くすこと以外に、その表現の美しさも追究すべきである」


ただし厳復の翻訳は「古雅」を追い求めるあまり、結果として知識階級でなければ理解されないほど難解であったため、一体翻訳は誰のため、何のためにあるのか、の論争を引き起こした様ですね。 (続く)