遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その36  『フリア・アルバレスと闇の時代』 その7: ハイチの場合 その2

デュヴァリエ支配下のハイチの雰囲気を、どんな歴史資料よりも雄弁に伝えてくれる小説として英国の小説家グレアム・グリーン *1 の小説 「喜劇役者」 が挙げられそう。この小説は 『G・グリーン全集19(1980)』 に収録されている他、『喜劇役者 (1967年、ハヤカワ・ノヴェルズ)』 など、いずれも田中西二郎さんによる翻訳が出版されている様です。


またドイツの女性作家アンナ・ゼーガース *2 によるものとしては以下2つが挙げられます;

  • ハイチ島の三人の女  http://www.cafebleu.net/book/seghers/haiti2.html  インディオの女性、黒人奴隷の女性、現代の黒人女性と、時代は異なるが、虐げられた三人のハイチの女性の悲劇的な生涯を描いた短篇集。かつて「ハイチの宴」でハイチを題材に取り上げ、再びハイチに取り組む。簡潔な文章によって虐げられた女性たちの力強い生き方を描いた、ゼーガースの最後の作品である。(上掲HPより抜粋)

● 中南米に関わっているとよく耳にするのが「マチスモ」 (マッチョ、要は男性優位主義あるいは男尊女卑) と云うコトバですが、ここ10年位でしょうか、 「マリアニスモ」 (聖母マリアが語源、女性の精神的優位を表す、あるいは母性イデオロギー) と云うコトバを耳にする機会が増えた様です。また、「ジェンダー」 (社会科学において、生物学的性に対する社会的・文化的な性の有り様、または場合により「女性」と同義) に関する講義やら研究も目にします。例えば−−− http://www.sophia.ac.jp/syllabus/2007/gakubu/1556_56430.html とか。


以前紹介しましたが、いまいちど山岡朋子さん(横山朋子さん) の翻訳書 『ルス、闇を照らす者』 の「訳者あとがき」 (ソニー・マガジンズ 2001年6月30日出版、451ページ) を参照しますと;

−−−私事になるが、訳者はメキシコの田舎町で暮らしていた頃、市場の売り子たちと親しくなるにつれ、メキシコの女性や社会運動に関心を持つようになった。女性たちが勉強会を開き、現状を変えようとしている村を訪れたこともある。−−−


また、08年10月25日の 【翻訳家 山岡朋子さん その19 ノーベル平和賞授与 署名活動の依頼の記録】 http://d.hatena.ne.jp/El_Payo_J/20081025/1224934683 でも紹介されている 『五月広場の祖母たち』 および 『五月広場の母たち』 の例、ミラバル姉妹など改めて挙げるまでもなく、少なくとも私がある程度見渡せる中南米・カリブ地域での女性の活躍は精神的なものにとどまらず、社会を変える原動力となっているのは事実ですね。


私見ですが、肉体的に男性が優位とは限らないし、精神的に女性が優位とも限らない。皆個人差がありますから。それ以前に、両性の違いを無視して比較すること自体馬鹿げています。決定的かつ多分いつの時代になっても変わることの無い唯一の違いは、女性だけが子供を産むことが出来る点。文豪ユゴーの言葉 「女は弱し、されど母は強し」 ってことではありませんかね? 聖母マリアは無原罪の母親。ひょっとすると、子供の出産により精神的にはもちろん、その結果として肉体的にも男性を上回る、と考えるべきかも。(オトコなんて本当に脆いですよ。)


従って、山岡朋子さんのエッセイ 『フリア・アルバレスと闇の時代』 http://shuppan.sunflare.com/essays/yamaoka_01.htm 中に;

--- 皆それぞれ結婚し、家庭を築いていた。女性として生を全うすることもできただろうに、何が彼女たちを駆り立てたのか。 ---

とありますが、むしろ家庭を築いていたからこそ出来たのではないか、と云う考えも成り立ちそう。女性あるいは母親の視点から歴史を把握して書かれた小説の存在価値・行われている社会運動は多分過小評価されています。改めて扱ってみたい話題ですね。


で、ハイチに限らず 『闇の時代』 に関する考察ですが、以下記事を参照;

http://www.book.janjan.jp/0810/0810260239/1.php
(『ハイチ いのちとの闘い−日本人医師300日の記録』の感想)

--- 本書では政治的な言説は抑制されているが、印象に残ったものはアメリカ在住のハイチ人アブジャスの言葉である。民主的に選ばれたアリスティドの施政下の混乱に直面して、「デュバリエ独裁時代のほうがハイチは豊かで、秩序があった」と独裁政権を懐かしむハイチ人がいることを彼は批判する。彼は独裁政権下の秩序を「恐怖の中での秩序」と位置付け、「自由のない社会の秩序は、自由のもたらす弊害以上に恐ろしい」と主張する(132ページ)。


この一見正しい主張にも、罠が潜んでいると思います。『自由』 の定義は何ですか?それが正しいと教えられ思い込んで来た『自由』 とは何か? 自分あるいは自分にとって大切なひとのいのちと引き換えるだけの価値はあるか? それは他人あるいは他国に押し付けることの出来るものか? −−−歴史を振り返ると二枚舌・三枚舌を駆使し続ける欧米諸大国の唱えるコンセプトに盲従することは大変危険と思います。現在のこの世界は、実質一国独裁時代ですよ。正に我々は 「恐怖の中での秩序」 の下で暮らしています。デュヴァリエやトルヒージョより、『帝国』 の皇帝は幾分マシでしょうか? みせかけの自由こそ、諸悪の根源かも知れません。今の世界こそ、過去に例を見ない 『闇の時代』 と言えませんか?


なにも独裁者に限らず、拷問や殺戮行為など糾弾・断罪されるべき。犯罪者を裁くのは当然。しかしそれはあくまで対症療法・モグラ叩きに過ぎない訳で、根を断つには、むしろ何故そんなことが起こったのか、何故阻止出来なかったのかを徹底的に検証すべきでしょうね。歴史を学ぶ意義はそれ以外には有り得ず、新しい秩序が求められている現在、ある程度明らかになった 『闇の時代』 から学ぶことは絶対に必要。『帝国』 の暴走に誰も歯止めがかけられない状況では暗澹たる気持ちにならざるを得ないのも事実ですが、千里の堤も蟻の穴から、ってこともありますからね。


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*1:ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3 参照

*2:http://www.cafebleu.net/book/seghers/index.html 参照。以下、このサイト 「カフェ・ブリュ」 の紹介ページ http://www.cafebleu.net/guide.html より引用;

アンナ・ゼーガースの文学

2001年にリリースしました。戦前のドイツから戦後の東ドイツで活躍した女性作家に関する情報です。あまり知られていない作家ですが、大好きでしたので、作ってみました。