遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その38  『フリア・アルバレスと闇の時代』 その9: 番外− 反戦あるいは平和活動と女性

3月23日付け 「翻訳家 山岡朋子さん その36  『フリア・アルバレスと闇の時代』 その7: ハイチの場合 その2」 にて、女性の活躍は精神的なものにとどまらず社会を変える原動力となっていることに関して少しだけ考察しました。


最初に断っておきますが、私はフェミニスト (性による違いを考慮しない男女同権論者の意味での) でもなければ、 「女性は子どもを持って一人前」 と云う母性礼賛者でもありません。フィクションとは云え、山岡朋子さん(横山朋子さん)翻訳の 『ルス、闇を照らす者』 に登場する出産経験の無い娼婦ミリアムが赤ん坊に対して抱いた感情とそれに基づく行動は、多分女性特有のものです。男と女の間には本質的な違いがある、と云うのが私の依って立つところ。勿論、両性の権利は同じであるべきですよ。


私はオトコですから、オンナのことはわかりゃしません。何となく感じることがあるとすれば、それは自分と女性の肉親との関わりから、あるいは今までの身近な女性の生きざまを見て、あるいは見たり聞いたり読んだりしたことからのみ。


また、日本の様に半端に豊かであるがゆえに余裕の無い、ストレスに満ちた社会での女性の在り方と、そうでは無い国 (昔の日本を含む) や地域の女性の在り方は随分違うな、と云うことも認識しているつもり。でも身の回りを見回すと、どう公平に見ても、女性が負わされているものの方がはるかに重そうです。特にお子さんがいらっしゃる 『母親』 と云う立場の場合はね。ひとりの人間の人格を育てる 「育児」 ほど難しいシゴトは無いとおもいますが、そのうえおんなとして、かつ場合によってはヨメさんとして、社会人として、企業人として期待されるものが乗っかる訳ですから。


一方で、男性の母親あるいは姉妹など女性の肉親に対する想いや重さも、文化によって随分違うみたい。例えばスペイン語の ”Madre” の訳語としては 「母親」 しか無いのでしょうが、でも実際はイコールではありません。スペイン語の場合相手を侮蔑するコトバは大変豊富ですが、間接的に相手の母親を侮辱するものが多分最悪。場合によっては相手から訴えられる。こんなもの (例示する勇気はありません) 日本語に訳したって意味は全然伝わらない。そのくらい、”Madre”の言葉は重いと感じています。むしろ 「お袋+α」 かな? いつぞやのWカップの決勝戦で、某選手が相手に頭突きを喰らわせた「事件」がありましたよね? 軽薄な相手の挑発には慣れた歴戦のつわものをしてあの場で敢えてあの様なことをさせたのは、相手が 「母と姉に対する侮辱」 を行ったから、と云うのであればよく理解できます。「馬鹿はほっとけよ」 では済まない程のことであった訳で。むしろ皮肉たっぷりに 「お前の母と姉はxxxxx」 と言い返していたら、多分相手が激昂して殴り合いになっていた筈。


色々な言い方・観方はあるでしょうし、それが絶対であると考えることは変なプレッシャーになるかも知れませんが、母親の愛は多分何の見返りも求めない、無条件の愛ですね。では父親のは? オトコとしては、同じだ、と言いたいが、でも母親のものとは違う筈。次元が違う。精子は提供したにしても、お腹の中に長期間抱えてはいませんから。私自身の父母のことを想い出すに、夫婦喧嘩のタネは大体出来の悪い私のしでかしたこと。親父の言い分は、理路整然。お袋の言い分は−−− 子供なりに、自分に加勢してくれているのはわかりました。自分も親になってみると−−−やっぱり同じ。


オトコはきっと、何もしないか、何かするにしても(屁であることの多い)理屈をつけ、自分を納得させる。「ダメなのもはダメ」 と云うコトバは駄々をこねる自分の子供にしか使わない。自分で勝手に意義ありと決めた 「目標」 達成のためには犠牲も止むを得ない、と言い聞かせて。たとえそれが戦争であってもね。『ルス』 に描かれている、後日考察予定のアルゼンチンの軍事政権の犯罪行為にしたって、彼らは恐らく 「テロとの戦いのためには必要なことだった」 のだから、一体何が問題なのか?と本気で困惑していた筈です。大半は子を持つ親だった筈だし。


人を傷付けたり殺してはいけない』 単純明快な命題です。これを愚直に主張出来るのは、多分母親あるいは出産経験は無くとも同じ機能を備えた (失礼な言い方かも) 女性でしょうね。これに対する反論は、子供でも訳なく1ダースは出せるでしょう。「理想ではあっても現実的ではない」 「家庭の主婦レベルで国家を論じてもらっては困る」 がその代表でしょうか。でもそれでは何も変わらない。何を命題に据えるかで行動は変わります。現代が 『闇の時代』 であるのは、その命題が間違っているからとおもいます。非常に短絡的に言えば、「平和」を実現させるには、”Madres”の声をオトコが具現化するのがベストな組み合わせかも。


以下、2人の女性の言葉を挙げておきます;


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B5
ウィキペディア 「マザー・テレサ」 の 「語録」 より抜粋

  • 私は、なぜ男性と女性が全く同じであると考え、男女の間の素晴らしい違いを否定する人たちがいるのか理解できません。
  • 女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物―それが母性なのです。
  • 帰って家族を大切にしてあげて下さいノーベル平和賞受賞の際、インタビューで「世界平和のために私達はどんな事をしたらいいですか」と問われて)。



マザー・テレサは人の法の世界では独身の女性ですが、社会の底辺で見捨てられたひとたちの中に神を見出し、その神への愛だけに一生を捧げた方、と解します。その意味では、 「人遣いの荒い」 神と結婚なさった、何万人もの 「子供」 の母親だった訳で。私はまだ "One Heart Full of Love" (原作はスペイン語 "Seremos juzgados sobre el AMOR") 1冊しか読んでいませんが、生きる目的が単純明快でありそれを生涯貫き通した 「マザー」 ですね。その没後6年で聖者の前段階である福者と宣言されたそうですが、キリスト者では無い私でも無条件に尊敬出来る。

  出典: Amazon http://www.amazon.co.jp/Heart-Full-Love-Mother-Teresa/dp/0892833939/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1238605592&sr=8-1

http://www.aoyama.ac.jp/extension/2006/aoyama_01/02.html
青山学院大学 前期 渋谷区教育委員会青山学院大学共催公開講座 青山キャンパス
講座 「女性と平和」

青山学院女子短期大学 助教授 (当時の呼び方のまま)
鈴木 直子

平塚らいてうと平和思想」 より抜粋


−−−こうした反戦平和思想の要となったのは、母親というアイデンティティだった。1955年には世界母親大会、日本母親大会が相次いで開催され、母親と子どもという視点からの平和が唱えられる。平塚は1952年に「母こそ平和の力です。人間をうみ、そして育てる母、神のいのちの泉をじかに汲んで、人類の生命を永遠に持続し、生長発展せしめるべき使命をもつ、その母が、人間を殺しあう戦争を何よりも憎むのは、あまりにも当然です。」(「母こそ平和の力」)と述べ、こうした女性たちの反戦平和運動の思想的バックボーンとなっていた。

*1

正に、 「ダメなものはダメ」 なのです。そう決めるからこそ、ではどうしようか?と考えるし、それなりの答えも出るのです。命題がふらふらしていたのでは何も変えられずに、あれ、この道は前に−−−?ってなことになる。


ところで、冒頭に紹介の記事中、『文豪ユゴーの言葉女は弱し、されど母は強し」 』 と紹介しましたが、この言葉はシェークスピアのもの、との記述もあり。どっちですかね? (どちらでも構わないとはおもいますが、居心地がよくない)


以上、4月4日、5日、7日に一部加筆訂正。なかなか納得できるものにならない(汗)−−−

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*1:蛇足ですが、この公開講座の案内文の上記抜粋部分に続いて以下記載がありました;

- 【平塚のこうした母性主義は1917年の「母性保護論争」から一貫している。そこで問題になるのは、戦時下において「母性」が女性を戦時体制へと組み込むイデオロギーとしても機能してきたという事実を、戦後の平塚やほかの女性たちがどう自己批判していたのかという点である。戦後の反戦運動における女性の役割と思想を、戦時下との断絶と連続、アメリカの占領政策における女性の位置づけなどに着目しつつ検討したい。】


どうもよく理解出来ない。何故かって、正しい主義主張が悪用されたから 「自己批判」 なんて馬鹿げてます、オトコの私の理解では。刃傷沙汰が起きる度に刃物メーカーが自己批判させられたら、たまったもんじゃありませんよね? 切れない包丁なんて、役に立ちゃしません。