遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

マザー・テレサ のこと

マザー・テレサ (ウィキペディア)生誕100年に当たる来年2010年、故ヨハネ・パウロ2世 (在位 1978年から亡くなられた2005年まで在位の第264代ローマ教皇) から2003年に列福されたのに続いて列聖される予定らしいのですが、最近 以下記事を目にしました;

http://www.cnn.co.jp/world/CNN200910180021.html
アルバニアマザー・テレサの「帰国」希望もインドは反発
2009.10.18 Web posted at: 19:32 JST Updated - CNN


−−−アルバニアのサリ・ベリシャ首相によると、生誕100周年を記念して、記念館の開館のほか様々な記念行事を開く予定。それ以上に、マザー・テレサが生前、故郷の家族のために毎日祈り、人生を通じて家族を恋しく思っていたことを強調。母や姉が眠るティラナの墓地に一緒に埋葬されるべきだと主張し、「とても人道的な願いだ。インド政府と話し合い、解決策を見出したい」としている。


一方、インド外務省は、外国人としてインドにやってきたが、生涯を通じてインドに貢献した功績を称え、「マザー・テレサはインド国民である」と反論している。


どこに埋葬されようと、マザーの偉大さも、その強固な意志も、人間に対して惜しみなく与えた献身的な愛の記憶も何の影響も受けはしませんが、アルバニアの言い分は、正直 「何を今更」 の感があります。マザーの呼び名には、例えばスペイン語では通常 "Madre Teresa de Calcuta" と呼ばれる様に、『カルカッタの』 が付されることが多いですから、インドの反論は至極尤もと思います。一介の修道女に対する 「マザー・テレサはインド国民である」 の言葉には、恐らく最大限の尊敬と感謝と賛辞が込められているはずです。


とは言いながら、きっと仏陀の様に分骨されるんでしょうね。神に召されたマザーは、その目的が何であれ怒らないでしょう。(私などにとっては) 些細なことですから。ただしそれが原因で両国間で紛争になるなら、恥ずべきことです。


ところでマザーの故郷はどこか? 上掲ウィキペディアによると; 【マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュは1910年8月26日、オスマン帝国領のコソボ州・ユスキュプ(現代のマケドニアスコピエ)でアルバニア人の家庭に生まれた。】 とあります。このまち Skopje は大きいのですぐわかります;


出典: http://www.lib.utexas.edu/maps/cia08/macedonia_sm_2008.gif


ところがこの地域は政治的に非常に複雑な事情がある様で、ウィキペディアからリンクの貼られている マザー・テレサ伝記 Mother Teresa:東海大学教養学部人間環境学科鳥飼行博研究室 によると;

マザーテレサは東欧出身として紹介され,webでも誕生地が旧ユーゴスラビアマケドニア共和国などさまざまである。東欧として,故国が指定されない事も珍しくない。たしかに,ギリシャブルガリア,トルコといったお馴染み国であればよいが,ユーゴスラビアセルビアアルバニアマケドニアとなると,独立国か,州か。地域名かも怪しくなる。しかも,これは国境,歴史的領土の正当性を巡る政治的問題でもある。多民族国家で民族分布が複雑なことに加えて民族自立のナショナリズムが意識され,支配された時期の歴史,地理的境界,地名を認めない傾向がある。


ヨーロッパではオスマン帝国を非ヨーロッパの「トルコ」と意識しており,オスマントスコ支配が過酷で残虐であったことを,現在のバルカンの独立国でも強調し,そのアジア的影響を排除したがる。残念ながら,日本でも,オスマン帝国を明示してあるものはなく,ユーゴスラビアマケドニアアルバニア(人)が使用されている。マザーテレサ自身,マケドニア生まれ,アルバニア人と認識しているのであれば,問題ないようにも思える。しかし,彼女の思想,行動を読み解くには,バルカン半島の複雑な民族,国家,支配の歴史抜きには語れない----,というのがこのサイトの立場である。


恥ずかしながら私はこの地域について全く知識がありませんので、興味のある向きはこのサイトを読まれることオススメ。


さて 『列福 (ウィキペディア)』 とか 『列聖 (ウィキペディア)』 って何だ? と云う点。マザーに関する事なので、普通は全く興味がありませんがあえて調べてみると、


列福とは、キリスト教カトリック教会において徳と聖性が認められ、聖人(Saint)に次ぐ 福者 (ウィキペディア) の地位にあげられることであり、列聖とは、キリスト教で聖人崇敬を行う教会が、信仰の模範となるにふさわしい信者を聖人の地位にあげることをいう。ほとんどの場合、死後行われる。またカトリック教会においては徳と聖性が認められた福者(Beato)が 聖人 (ウィキペディア) の地位にあげられることをいう、そうです。


無邪気に (宗教的に無礼であったらご免、の意味) マザーとヨハネ・パウロ2世を比較しますと−−−


カトリック教会における列聖の段階;
神の僕 → 尊者 → 福者 → 聖人


            逝去        列福          列聖

ヨハネ・パウロ2世  2005年4月2日  (未)         (未)
                   2007年4月2日には列福調査が完了、審査中
                   従って現在 神の僕あるいは尊者 の段階?


マザー・テレサ    1997年9月5日 2003年10月19日  (2010年8月26日)
                   従って現在 福者 の段階


マザーは一介の修道女ですが、世俗での地位としては多分天上人程のローマ法王に匹敵する扱いですね。歴史を学んで来た中で私はキリスト教会にあまりよい感情は抱いていませんが、この扱いには満足。世界中の信者から慕われたヨハネ・パウロ2世の英断であったのでしょうが。(現在の法王は何につけ比較されるから可哀そう? ですね)



 今日食事の際TV点けましたら、ちょうど俳優の長門裕之さんが、重篤の奥様南田洋子さんのことを話していらっしゃいました。確か 『(意識がまだおりの時) 今の洋子にはオレしか見えていないんだ。こんなに洋子と一体になったと感じられることは今まで無かった』 と云う様なことを言われたと記憶します。もちろん奥様には回復して頂きたいし、長門さんの苦しみは伝わって来ますが、でもその心境は心底うらやましいと思いますね。私は失敗しちゃいましたから。実生活の全てがバラ色な訳はないが、私のお二人に対するイメージはおしどり夫婦。きっとそのご褒美なのでしょう。最善の形ではないかも知れませんが、お互い思いやりながら添い遂げられることをこころよりお祈り申し上げます。


マザーは、ケアしていた患者の中に神を見たそうです。長門さんの感情と相通ずるものがあるのでは?