遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

土井敏邦監督製作ドキュメンタリー映画  『沈黙を破る』 を観ましたが−−− その2

2009年5月6日付け土井敏邦さんWebコラム−日々の雑感 148:『沈黙を破る』公開に寄せて− url = http://www.doi-toshikuni.net/j/column/20090506 の中で、土井さんが取材・撮影・編集のなかでこだわられた点として以下3つが挙げられています;

  1. 人間をきちんと描くこと。単にパレスチナ人やイスラエル人の問題としてではなく、“人間共通の普遍的なテーマ”として描き出すために、固有名詞で、等身大で、そしてその内面を引き出すこと。

  2. “現象”ではなく“問題の構造”を描くこと。センセーショナルな事象を伝えるだけではなく、地味ながら、生活を淡々と描き、深い嘆息と共に人びとが絞り出すように語る声を紡ぎだすことで、“占領”という“構造的な暴力”を伝え知らせること。

  3. パレスチナ人とその苦悩だけを描くのではなく、もう一方の当事者であるイスラエル人側も人間としてきちんと描くこと。パレスチナ側とイスラエル側を“合わせ鏡”のように相互を相手に映しだすことで、問題の根源、本質を、立体的・重層的に見せること。


これらが作品に反映されているのは間違いの無いところですが、だから何なのか?が今一つ伝わって来ません。今までにも別の題材で繰り返し 『問題提起』 はなされています。土井さんの問題提起は今までに無い斬新なものなのかも知れませんが、それだけのことではないか?


もうひとつ、映画『沈黙を破る』ゲスト・トーク第6回 綿井健陽(フリー・ジャーナリスト) さんとの対話 *1 も参照して見ますと、次の様に締めくくられています;

大きな問題提起になりました。

『沈黙を破る』は、ホントにいろんなことを考えさせられる映画です。


何十年も考えてばかりで何も解決しない。私には、ふたりのジャーナリストのマスターベーションにしか思えない。「私たちは命がけで問題提起していますよ、行動はしませんが」 がジャーナリストの役割なら、それはそれで素晴らしいのでしょうが。


なおこの対談の中には大変気になるやりとりが2つあります。まずひとつ目は;

  • 綿井さんの発言; −−− 日本では、イラクへ行った人で、顔出し実名で現場のことを告発している人って、未だいないんです。誰か、一人でもそういうことをやる人が出てくれば続く人もいるのか。それとも、日本の文化的なもので、やっぱり表には出てこないんだろうか、と考えます。
  • 綿井さんの発言; −−− 正当化の論理を教え込まれ、言い聞かされる。これは、一種の「意識の剥奪」なんだけど、それは自分では意識化できていないんです。
  • 綿井さんの発言; −−− 日本人は、声を上げずに死んでしまう。自殺者もすごく多い。「墓場まで持っていく」みたいな考え方。日本人のメンタリティーなんだろうか、と思ったり。


私自身この点については葛藤があるし、言動を一致させられない後ろめたさがあるのですが、『沈黙を破る』 ひとがいないこと、実名で現場のことを告発するひとがいない理由はよくわかります。それを 「日本の文化的なもの」 「日本人のメンタリティー」 で片付けていないか? オレは意識しているが、皆は意識化できていない、との自惚れはありませんか? いくら問題提起しても何も変えられないのはそれが原因ではありませんか?


もうひとつは;

  • 土井さんの発言; −−− 僕は、社会の中で、ことさら被害が強調される時って、危ないんだと思う。とても危険な時だと思う。被害を強調することで、疑問や冷静な判断を覆い被せてしまう。今回のイスラエルのガザ侵攻もイスラエルの人たちには、「カッサムロケット」が被害の象徴だった。ガザの実際(加害)を隠す道具として使われていたように強く感じます。
  • 綿井さんの発言; −−− 光市母子殺害事件なら「加害者の人権より、被害者の人権を思え」と。この、どちらかにしか関わっていはいけない論理が恐ろしい。
  • 土井さんの発言; −−− 日本でも裁判員制度が始まります。死刑廃止についても、日本はまだまだ論議が盛り上がらないままです。結局、綿井さんが言った「どちらかにしか関わってはいけない論理」が登場すれば、両者の話し合いが頓挫してしまう。対話ができなくなる。

    私たちは、宅間守が死刑になってすっきりしたのだろうか。光市母子殺人事件も、被告が死刑になれば「ああ、よかった」と腹の底からすっきりできるのだろうか。


最初に引用した土井さんの発言部分については異論ありませんが、それに続く綿井さんの発言(の一部)は浮世離れしている、問題をすり替えているとしか思えない。「加害者の人権より、被害者の人権を思え」 については、一概に 「どちらかにしか関わってはいけない論理」 とは云えません。何故? 加害者、特に未成年の人権は、まだ問題無しとは云えないまでも保護されていますが、被害者 (殺人事件の場合はそのご遺族・関係者) は丸裸だから。下手をすると、被害に遭った方にも問題がある様な目で見られるから。特に通り魔的な事件の場合、被害者に一体何の責任があるのか?現状こそ、 「どちらかにしか関わってはいけない論理」 が大手を振って歩いているのですよ。それを認識していないことこそ恐ろしい。何年か前、確か○○電力の女性従業員の方が殺された事件がありましたね? あの被害者に関するマスコミの報道の卑劣さは忘れません。土井さんも綿井さんもそんなレベルにいらっしゃるとは思いませんが、でも我々から見ると --- son las mismas mierdas --- ですよ。


最後に引用した土井さんの発言は、資質を疑うに十分な発言ですね。宅間守やら光市母子殺人事件の被告やら、どこぞの教祖さまが死刑になって、「ああ、よかった」と腹の底からすっきりするひとはいますか??? 被害者でさえ、やりきれない、割り切れない気持ちで一杯でしょう。 『死刑はけしからん、十分に自分のしたことを認識させ、加害者が罪の苦しみを背負いながら、生涯生きられるようにすることこそ大事』 なのはリクツとしては正しい。でも、それは意外と 『臭いものにフタ』 かも知れませんよ。刑務所に入ったら、その後誰も見向かなくなるでしょ?ジャーナリストがフォローするのですか? 冤罪の可能性が無き限り、カネにならないから、何もしないでしょ? (死刑制度について山ほど言いたいことはありますが、本題と直接の関係はありませんからこれで打ち止めますが)



で、この映画を観ての結論; 何も変えられないもどかしさから上に好き勝手に書きましたが、さすがに長年に渡ってイスラエルによる占領を文字通りいのちがけで取材し続けていらっしゃる土井さんの作品だけあって、説得力があります。それを観て何かを感じたなら、我々は自分の置かれた立場で何が出来るのか少しだけ考え、早く具体的な行動につなげる努力が必要。ジャーナリストからの挑戦 −−− さて、お前はどう考えどう行動するのだ? −−−と受け取るべきなのでしょう。昨年10月25日付け 『翻訳家 山岡朋子さん その19 ノーベル平和賞授与 署名活動の依頼の記録』 の中で記しました様に、土井さんの活動は無駄ではありません。どうか、発信し続けて欲しい。


『歴史から学ぶ』 の観点からは、そうですね、何があの泥沼のベトナム戦争を終わらせたのかを再度振り返ることですかね。

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