翻訳家 山岡朋子さん その65: 11月20日は 世界の子どもの日 "Universal Children's Day"
本日11月20日は 世界こどもの日 (ウィキペディア) です。1954年に国連が子どもたちの相互理解と福祉を増進させることを目的として制定した記念日で、 「児童の権利に関する宣言」 (1959年) と 「児童の権利に関する条約」 (「宣言」 採択30周年記念日に当たる1989年の11月20日に第44回国連総会において採択され1990年に発効、日本は1994年に批准) が採択された日であり、1954年12月4日の国連総会での勧告に基づき日本では「こどもの日」の5月5日をそれに当てています。
ちなみに日本が批准 (ウィキペディア) した主なこども関連の条約は、外務省HP−児童の権利条約 によると;
- 1994年 「児童の権利に関する条約」 (上述)
- 2004年 「武力紛争における児童の関与に関する児童の権利に関する条約の選択議定書 (PDF)」
- 2005年 「児童の売買、児童買春及び児童ポルノに関する児童の権利に関する条約の選択議定書 (PDF)」
※関連して、国際連合児童基金 ユニセフ (ウィキペディア) *1 が 「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」の普及活動にも努めています。更についでに、私にとっては今でも憧れの? アグネス・チャン (ウィキペディア) さんは、日本ユニセフ協会 (ウィキペディア) のパートナーかつ大使です。 ⇒ AGNES CHAN OFFICIAL SITE 〜アグネス・チャン オフィシャルサイト
立派な法律やら条約やら権利憲章やらを制定することでそれなりの満足感はあるのでしょうが、カネにならない限りそれを実現する仕組みを作ったり維持改廃することの優先順位を下げてしまうのが、現在 「正しい」 と思われている体制の構造的な欠点です。加えて、 「不況」 と云うコトバはそれを切り捨てる格好の免罪符の様に使われていますし (引用中、米印 "※" の部分は私のコメントです);
- http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009111000563
犠牲者は子供=経済危機で途上国に三重苦−ユニセフ
(2009/11/10-14:30) 時事ドットコム
−−−リベリアやコンゴ民主共和国(旧ザイール)などアフリカを中心に途上国の財政は、ここ2〜3年の食料価格の高騰と燃料価格の上昇で既に弱り切っていた。そこに米国発の金融危機が加わり「まさに今は三重苦」の状況にある。
貧しい家庭がさらに困窮すると、食費、教育費、医療費を削る。その結果「最も影響を受けるのは子供」(同部長)。学校に通えなくなり、路上での物売り、建設現場や農場での重労働、さらに売春まで強いられる。
カーン部長は「まともな食事を取れず病気になっても医者に行けない」子供が増えたと指摘。「子供の死因の1位と2位は肺炎と下痢だが、肺炎は薬さえあれば治るし、きれいな水があれば下痢は防げる」と訴え、 (以下略)
- http://www.unicef.or.jp/library/pres_bn2007/pres_07_44.html
イラク:「国際社会は責任を持った対応を」
【2007年4月18日 ジュネーブ発】 unicef
−−−今月12日(現地時間)には議会で、18日(同)には、バグダッド市内のマーケットでと、テロによる犠牲者が後を絶たないイラク。 一向に改善しない治安。 蔓延する栄養不良と感染症・・・最大の犠牲者は、子どもたち。 (以下略)
※UNICEFは国連の補助機関ですから、国連の方針と異なることは出来ない筈。国連がある一国の国益のためにイラクで戦争を行っていることが治安悪化の最大の原因ですから、UNICEFの出来ることには自ずから限界がありますね。治安維持を求めてはいますが、その答えが戦争でしょうか?? アメリカが行っている戦争を止めさせれば、それだけで問題の半分以上は解決するのにね。サダム・フセインは悪魔の様に扱われて抹殺されましたが、民族浄化とは言わないまでも特定民族や勢力を抑圧していたのは事実にしても、他方、戦争前のイラクは教育水準の非常に高い豊かな国であった、と聞き及んでいます。 *2 そこに全く異なる価値観を押し付けに来た国がイラクを破壊したのでは? 国連に対してまず戦争を止める様勧告するのでもない限り、UNICEFの言動ははっきり言って無意味です。『引き続き責任を持った行動を取るよう訴え』 るだけでは、馬鹿なアメリカは理解出来ません。
- http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2009111700254
全米15%世帯が食料不足=不況直撃、子供の飢えも急増
(2009/11/17-10:21) 時事ドットコム
−−− 報告は、子供の食事まで制限せざるを得ない世帯が50万6000世帯に達し、前年比56.7%も増加していると指摘。「通常は保護されるはずの子供まで、食料を確保できないケースが増えている」と警告した。
※アメリカでさえこの有様。株屋やら金融屋の給料や報酬の多寡は議論されても、アメリカに 「飢え」 が存在することは問題にもされない、と云うより信じたく無いのでしょう。ところで日本は? 子どもの飢えは無いと思いたいが、むしろ別の弱者 --- 私も仲間入りをしつつあるお年寄り、ホームレスの方々 --- はどうだろう?
- http://www.unic.or.jp/recent/orara.htm
児童と武力紛争に関する国連特別代表、総会に第1回報告書を提出
(児童と武力紛争に関するオララ・A・オトゥヌ国連特別代表は1998年10月12日、第1回報告書(A/53/482)を第53回総会に提出し、戦時中の子ども虐待を止める国際的行動を要請した。以下は、同報告書の要旨である。) (以下略)
※「戦時中の子ども虐待を止める国際的行動を要請」 の優等生的な作文の意味も意図も理解出来ない。戦争を止めさせろ、ならわかるが。これも国連ですから、政治的な発言とならざるを得ないのでしょうが。
以下は参考まで紹介。内容は別として実際に活動されて実績もあがっている筈なので、批判は差し控えます;
児童 人権 世界の医療団(メドゥサン・デュ・モンド) 証言 子供の権利宣言
母子 福祉 世界の医療団(メドゥサン・デュ・モンド) 証言 国際社会の使命
紛争 犠牲 援助 世界の医療団(メドゥサン・デュ・モンド) 見捨てられた危機
なお子どもに限らず 「社会的弱者 (女性であるだけで弱者、とは私は考えませんが)」 と云う観点からすると、似たような問題が山積み;
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20091119-OYT1T00005.htm
世界人口68億、女性貧困層の問題警告…国連白書
(2009年11月19日00時14分 読売新聞)
−−− 特に女性貧困層が気候変動の影響を最も受けるとして、温室効果ガス削減の数値目標だけでなく、人的側面への配慮を求めた。
白書は、気候変動による洪水や干ばつなどが、貧困層の生活環境をさらに悪化させると指摘した。中でも、農業や家事を担う女性は「食料や水、燃料を確保するため一層の労働を強いられる」うえ、少女の教育機会も奪われると警告した。(以下略)
本来 「資本」 には、個々の人間が食料や飲料水をいちいち確保しに行かなくともよい --- オレンジを食べるためにスペインの農家まで行かなくてもよい、有名な湧き水を飲みにおフランスまで出かけなくともよい、今年の冬の灯油 (私は道産子です、ご参考) をアラビア半島まで汲みにいかなくてもよい、など --- 複雑な仕組みを効率よく提供する役割がありますが、このケースではそれが全く機能していない、と云うことですね。何故でしょう? 援助は必要不可欠なのですが、何故か?
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091117-00000067-san-int
孤児虐待の歴史に謝罪 英国から豪州へ 養護施設で強制労働
11月17日7時57分配信 産経新聞
−−−豪州の調査によると、20世紀中に英国やマルタから送られてきた子供は6000人から3万人に上る。彼らはほとんど孤児とされたが、実際は家庭が貧しかったために親に捨てられたり、「より良い生活があるから」などと誘われたりしたほか、中には「旅行させるから」と言ってだまされて連れてこられたケースもあったという。
これら英国からの子供だけでなく、豪州国内で、家庭崩壊や母子家庭であることを理由に養護施設や孤児院に送られた子供も同様に強制的に働かされ、虐待を受けた。これらの子供たちは、特に「忘れられたオーストラリア人」と呼ばれ、約50万人に上るという。
豪政府は先住民のアボリジニと白人の間に生まれた子供に対しても、19世紀後半から1世紀にわたり、アボリジニの親から引き離して育てる「隔離政策」をとった。アボリジニを白人社会に同化させるためだ。ラッド首相は昨年2月、これについても公式に謝罪している。対象とされた子供は約10万人に上り、こちらは「盗まれた世代」と呼ばれている。
最後の紹介となりましたが、山岡朋子さん (横山朋子さん名) 翻訳の 『ルス、闇を照らす者』 に描かれた主人公ルスは上掲記事の様に強制労働や飢えや虐待を経験した訳ではありませんが、「本当の親を奪われた、家族から引き離された」 と云う共通点があります。現在寄り道が過ぎてなかなかまとまらないコロンビアのケースでは、子ども兵士の問題もあります。ストリート・チルドレンも含め問題の種類や背景は様々ですが、社会の歪に最も痛めつけられるのが子ども、その母親 (父子家庭もありますが)、家族、地域の順でしょうか。子どもをはじめとする 「弱者」 が飢えている様な社会は、どんなに高邁なxx精神を掲げようがお題目を唱えようが落第と思います。最低限守るべきものは何か、犠牲にして構わないものは何かを忘れて平和だの景気だのに大騒ぎしている世の中って、居心地がわるいですね。
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*1:1946年12月11日に設立された当初は国際連合国際児童緊急基金(United Nations International Children's Emergency Fund、頭文字をとった略称が UNICEF)、その後1953年に正式名称が現在のもの 国際連合児童基金 (United Nations Children's Fund) に変更されたが略称はUNICEFのまま。なお日本は、戦後の緊急援助として1949年から1964年にかけ、主に脱脂粉乳や医薬品・原綿などの援助を受けた主要な被援助国の一つであったことは忘れてはならないでしょうね。
*2:昔から読んでいます田中宇さんの記事から以下抜粋;
−−−▼アラブ発展のモデルだったサダム・フセインの富国強兵策
アメリカの味方から敵へと転換させられた2番目の例は、サダム・フセインのイラクである。1973年の石油危機を皮切りとした石油価格の高騰によって短期間にばく大な資金を手にしたアラブ産油国の多くは、王室が贅沢な暮らしをするなど、せっかくの儲けを浪費してしまう傾向が強かったが、例外もあった。その一つがフセインのイラクだった。
イラクでは石油危機前年の1972年に、それまで石油産業を支配していた外資系企業を追い出して石油を国有化した。それを実行したのは、副大統領だったサダム・フセインだった。フセインは1968年のバース党クーデターの黒幕で、副大統領として実権を握ったが、党内の内紛が激しかったため、大統領には名士で党内各派に顔が利くが狡猾でない老人のアーマドハッサン・バクルになってもらっていた。
石油を国有化した翌年に石油危機が起こり、世界有数の産油量を持つイラク政府は、一気に金持ちになった。サダム・フセインはこの金を使い、それまでシーア派・スンニ派・クルド人がバラバラに争い、地縁血縁もひどく分裂気味だったイラクを、バース党の傘下に統合していった。全国の道路や発電所を作り、農村の近代化や農地の土壌改良などを進めるとともに、全国の医療や教育を無償化した。これにより、イラク国内の多くの勢力が、フセインのバース党政権を支持するようになった。
社会主義のバース党は、男女平等も推進し、それまでの男尊女卑を乗り越え、女性の職場進出が進んだ。石油以外の産業育成も行い、イラクは石油危機から数年間で、中東で最も社会制度の整った先進的な国となった。同時にフセインは、軍とは別の治安部隊を作り、反政府的な態度をとる勢力を弾圧するとともに、軍内や党内の分裂行動を取り締まるという強権的な政治も併用し、急速にイラクを統一させ、富国強兵した。
石油収入を使った開発独裁政策を展開して成功したフセインのやり方は、他の中東諸国のモデルとなりうるものだった。石油を使ってアラブを強くしようとするイラクのフセインの戦略は、イスラエルにとって大きな脅威だった。 石油の国際政治 / 2007年3月13日 田中 宇 より
−−− よく言われることだが、イラクの人々は、教育水準の高さではアラブ随一である。湾岸戦争まで、イラクは石油収入を教育に回し、しかも社会主義だったので男女平等に高等教育をほどこし、海外留学経験者も非常に多かった。湾岸戦争後、世界から敵視されて海外留学も行けなくなったが、私が会った医学生たちは、自分たちの教育水準には自信を持っており、教授が「医者は足りている」と誇りを持って語るだけのことはありそうだった。 戦争を乗り切ったバグダッドの病院 / 2003年5月10日 田中 宇 より
−−− イラクは、1980年にイラン・イラク戦争を始めるまで、石油収入によって中東で最も豊かな国の一つで、教育水準が高い中産階級が育っていた。彼らは、イラクの民主化を担うはずの人々だった。
しかし、8年間のイランとの戦争に加え、90年の湾岸戦争でイラク経済は壊滅し、その後も経済制裁が続いて復興できなかった。国民の1割にあたる200万人が欧米や周辺のアラブ諸国に逃げ出し、国内に残った人々は貧乏になって、中産階級は消滅した。そのためアメリカが経済制裁によってフセイン政権を窮地に陥れ、イラク国内の反政府運動を高めたいと考えても、経済制裁が民主化運動の担い手を消してしまった以上、それは無理な話だった。 アメリカとイラク・対立の行方 / 2001年2月19日 田中 宇 より