遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その66: アルゼンチン軍政時代の行方不明者 (犠牲者) の子どもの調査

山岡朋子 (横山朋子さん名) 翻訳の 『ルス、闇を照らす者』 *1 作品の最後、エピローグ・1998年に以下記述があります;

 1998年8月3日、ノラ・メンディラルス・デ・オルティスは不安げな面もちで、祖母たちの本部へと足を踏み入れた。どうやって話を始めよう。 (中略)


「ごめんなさいね。とても感動してしまったもので。今は組織適合性の検査を受ける様申しあげるだけで充分でした。ルスの検査結果はもう研究所に置いてあります。」


 デリアは話しながら机の引き出しのなかを探っていた。ああ、あった。一枚の写真をノラに渡す。これがルスで、この子が息子のフアンです。すばらしいですわ、そんなにお若くてひいあばあちゃんになられて。もしよろしければ、お年を教えていただけません?


「65です」


「ルスは検査を受けましたが、遺伝子情報センターに、ご親族の方の血液の資料は何もありませんでした。あなたにお聞きしたいことが山ほどありますけど、検査をお受けになるのが先決でしょうね。ルスが知ったらどんなに喜ぶでしょう。」


 ノラは一言も言わず、食い入るように写真を見つめている。


 いいえ。やっと口をついて出た声は感動に押しつぶされ、聞き取れないほどだった。ノラには検査など必要なく思われた。写真をじっと見つめ、指でルスの顔をなぞっていく。この写真。リリアーナだ。同じ目をしている。立ち方までそっくりだ。


 ノラはやっと写真から目を離し、デリアを見てはっきりと言った。思いがけない知らせに、胸が一杯です。検査は必要ありません。ルスは私の孫だと思います。間違いありません。でも、もしルスにとって必要であれば、もちろん検査を受けましょう。 (以下略)

  • 原文 (祖母サイトよりダウンロードの PDF より抜粋)


    EPÍLOGO
    1998


    El 3 de agosto de 1998 Nora Mendilarzu de Ortiz entró, con paso inseguro, a la sede de las Abuelas. No sabía cómo encarar el tema. (中略)


    −−Discúlpeme, es que estoy tan conmovida. Lo adecuado en esta situación es que usted se haga el análisis de histocompatibilidad, los datos de Luz ya los tienen en el laboratorio.


    Mientras hablaba Delia buscaba algo en el cajón de su escritorio. Sí, ahí estaba. Le extendió la foto a Nora. Esta es Luz, y su hijo, Juan. Qué maravilla, tan joven, y bisabuela. ¿Cuántos años tiene, si no es indiscreción?


    −−Sesenta y cinco.


    −−Luz se hizo el análisis pero claro, no había ningún dato de su sangre en el Banco de Datos Genéticos. Me gustaría preguntarle tantas cosas juntas. Pero sería mejor que se haga primero el análisis. Para Luz sería una enorme alegría.


    Nora miraba la foto sin pronunciar un solo sonido.


    No, dijo por fin, las palabras casi inaudibles, ahogadas por la emoción, a Nora no le parecía necesario, los ojos fijos en la foto, con lo que ella le había dicho, el dedo que tocaba el rostro de Luz en la foto, y esta foto: es Liliana, los mismos ojos, la misma manera de pararse.


    Al fin Nora pudo desprenderse de la foto y miró a Delia, la voz más firme: Esta noticia, tan inesperada, me llena de alegría. No necesito pruebas. Yo creo que Luz es mi nieta. No tengo ninguna duda. Pero si le parece que para ella es importante, no tengo inconveniente en hacerme el análisis.


上に引用した中に 「祖母たちの本部」 とあるのは、実在の組織 Abuelas de Plaza de Mayo (Wikipedia ES) を指します。この組織およびその姉妹組Madres de Plaza de Mayo (Wikipedia ES) については、 アルゼンチン緊急行動 / 2001年6月12日(火) 午後3時29分 / アムネスティひろしま に、「説明文は毎日新聞記者の横山とも子さんの文章をお借りして、少し手を加えました」 として以下案内されています;

−−−「五月広場の母たち」と「祖母たち」はアルゼンチンの軍独裁期(1976年〜1983年)に行方不明となった家族を捜索している女性たちです。当時反体制派とみなされ、行方知れずとなった人々は三万人ともいわれ、そのうち乳幼児は五百人に上っています。両親と共に拉致された子どもや、強制収容所で生まれた赤ん坊の中には、軍関係者の家庭に奪われた子も大勢いました。「母たち」と「祖母たち」は、行方不明者の消息を尋ねる新聞広告を掲載し、行方不明者が出産したと言われる病院を調査し、血液学を利用して親子関係を確認するなど、さまざまな方法で捜索を続ける一方で、国際的にも人権擁護諸団体に軍部の人権弾圧を訴えてきました。 (以下略)


中国残留孤児の方々の調査にあたってもDNA鑑定は最後の切り札となるものですが、11月19日、政府が 汚い戦争 (ウィキペディア) の間に行方不明となった方々の子どもたちのDNAを採取することを認める法案が可決された、と云う報道がなされました;

  • http://www.ww4report.com/node/7971
    Argentina moves to compel DNA from suspected "dirty war" children
    Submitted by WW4 Report on Sat, 11/21/2009 - 14:00. WW4 Report's blog


    −−−Among the supporters of the law is the association Abuelas de Plaza de Mayo, a group dedicated to obtaining restitution for the relatives of persons disappeared during the dictatorship. Among the vocal opponents to the law is Ernestina Herrera de Noble, owner of the influential media group El Clarin, who has two adopted children born during the years of the Dirty War. (以下略)
  • http://www.clarin.com/diario/2009/11/19/elpais/p-02043967.htm
    El Senado aprobó la ley que autoriza la obtención de ADN
    Jueves 19, Noviembre 2009 Clarín.com


    La Cámara de Senadores aprobó por 58 votos a favor y 1 en contra (el salteño Juan Pérez Alsina) la ley que autoriza la recolección de material genético: "Para tales fines -dice la norma-, serán admisibles mínimas extracciones de sangre, saliva, piel, cabello u otras muestras biológicas". (以下略)


冒頭に引用した 『ルス、闇を照らす者』 は当事者が血液・DNAなどの生体情報提供に合意している例ですが、上掲最初の記事中のエルネスティナ・エレラさんの様に、対象期間に生まれた子どもを養子にしたケースでは提供したくないと云うケースも有り得るため、この様な修正法が議論されたのでしょう。制限付きながら行方不明者の権利が個人のプライバシーに優先される云うことですね。これで調査が加速されるとよいのですが。


「5月広場のおばあちゃんたち」 の活動は続いています。最近判明したケースを以下紹介。HP冒頭ページ の記事;

http://www.abuelas.org.ar/comunicados/restituciones/c39.htm
Se resolvió el caso N° 99, se trata de Mónica Graciela Santucho
Buenos Aires, 10 de noviembre de 2009 | ABUELAS DE PLAZA DE MAYO



Mónica Graciela Santucho さんの写真、同記事より


※このケースNo.99については、行方不明当時14歳であった Mónica Graciela Santucho さんの死亡が確認されたと云う残念な結果に終わりました。1976年12月3日モニカさんのご両親は自宅で射殺され、モニカさんは兄弟 (多分妹さんと弟さん) 二人を自宅そばのゴミのコンテナに隠したものの自分は拉致され、証言によると翌1977年まで監禁された後殺害された様子。もっと小さければ養子などに出されて生き残ることが出来たでしょう。(それはまた別の地獄ですが) ご親族は本年10月14日、死後32年経ってやっと遺骨を再埋葬出来たことになります。3人のご冥福を祈ります。残されたご家族にとっては一区切りなのでしょうが、気持ちの整理など付かないでしょう。


何故こんなむごいことが出来るのだろう、と誰でも思う筈です。手を汚した者にも家族があった筈ですから。命令されたから、と云うこともあるでしょうが、以前チリの独裁者ピノシェの言葉として紹介した 「−−−あんた方(聖職者)は、哀れみ深く情け深いという贅沢を自分に許すことができる。しかし、私は軍人だ。国家元首として、チリ国民全体に責任を負っている。共産主義の疫病が国民の中に入り込んだのだ。だから、私は共産主義を根絶しなければならない。(中略)彼らは拷問にかけられなければならない。そうしない限り、彼らは自白しない。解ってもらえるかな。拷問は共産主義を根絶するために必要なのだ。祖国の幸福のために必要なのだ。」 の 『大義』 が全てを麻痺させたのでしょう。実際当時の軍事政権は弾圧行為を 「国家再編成プロセス」 (National Reorganization Process) と呼んだそうですから。


イラクアフガニスタンで起こっていることも本質的に同じ;『大義』 の名の下、殺戮・暴力行為が 「国際社会の合意により」 「合法的に」 進行中です −−−


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*1:株式会社ソニー・マガジンズ 2001年6月30日発行 初版第1刷 447〜449ページより抜粋