遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その13  吉川幸次郎さん

このブログの『翻訳家 山岡朋子さんその3』で紹介した『エッセー:翻訳の現場から』の『吉川幸次郎氏のこと』に関し、文学翻訳に対する吉川さんの姿勢について別の角度から紹介してみたい。

http://shuppan.sunflare.com/essays/yamaoka_1.htm (上記エッセイ)

以下、昭和21年に交わされた「洛中書問」での大山定一さんとの論争から、吉川さんの姿勢を考察するものです;

翻訳の危険性 1996.2.7 日華翻訳雑誌
出展  http://nikka.3.pro.tok2.com/risk.htm

(3) 文学翻訳に対するふたつの見解

  • (1)吉川幸次郎:「翻訳というものは、要するに方便であり、童蒙に示すためのもの」「同じく方便であるならば、原文のもつだけの観念をより多からずまたより少なからず伝える方が、童蒙にはむしろ便利」、「日本の読者に対する過度の関心は、却って日本の学問の能力をそこなうおそれなきに非ず」(「洛中書問」)
  • (2)大山定一:翻訳が作品の内容を多からず少なからず正直に伝えるだけのものならば、所詮通弁の取るに足らぬ仕事、文学の翻訳は「今日当然書かれていなければならぬ文学作品を、言わば翻訳という形で示した」翻訳文学。(「洛中書問」)


この「洛中書問」については、Alice in Tokyo の書評に以下記載があります;

http://www.alice-it.com/syohyo/honyaky.htm

(3)洛中書問

  • これは翻訳に関して、片や中国文学、片やドイツ文学で鍛えた長剣を正面にかまえた、壮年学者の対決である。(お二人ともこの時40歳) 見る方も緊張する。翻訳論議の根幹に触れる問題を、往復書簡の形で展開している。議論の展開の下手な紹介は避けたいのであるが、翻訳には文人の翻訳と学人の翻訳があるという風に話が動く。つまり、翻訳は文学創造なのか文学研究なのかという視点である。
  • 吉川が後者に傾くのに対して、大山は前者、あるいはこの2つを越える立場をとる。翻訳に対する態度も吉川の場合は、文学研究の過程の産物とみなし、原語を原語のままに深く解していく方向を取るのにたいして、大山の翻訳に対する目標はさらに上に置いているようである。詩を訳せば詩でなければならないとし、論は韻律の問題を提起したところで終わる。勝敗はいづれが勝ちとも判定できないのであるが、この時点では、私はどちらかといえば大山に加担したい。
  • 私は、「杜甫詩注」などでの吉川の翻訳部分は正直なところ飽き足らないものを感じていたが、同氏の翻訳論で、多少理解が深まった。言葉の意味内容、響きを出来るだけ忠実に伝えるべく訳そうとされていたことを知った。
    • (この本は昭和19年雑誌に掲載されたものを昭和21年に本として出版したものである。吉川幸次郎か大山定一の全集か本の中に再録されているのではないかとと思うが未確認。それにしても戦争一色で覆われていた時代にこんな議論がなされていたことは驚くべきことであり、戦後いち早く出版した出版社あったことも、日本の文化を考える上で大切なことだと思う。)


さらに、金 貞禮(KIM Jeong Rye)国立全南大学校副教授はその『五・七・五、日本と韓国』のなかで次の様に吉川さんの姿勢を紹介されています;

http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/forum/text/fn129.html

 吉川幸次郎氏は、次のようにいっています。

 翻訳とは、異なる二つの民族の言語という矛盾した存在の中に、統一した方向を見つけ出そうとする努力であります。〈中略〉原文よりも、より以上の明晰度を、またより以上の文学性を、注入しようとする意識は、文士の翻訳としてはともかく、学人の翻訳としては、殊に抑えらるべきでありましょう。それは真実の掩蔽であり、学人としては、莫大の罪だからであります。拙訳「尚書正義」第三冊の序に「私が最も腐心したのは、正義原文の曖昧なところを、むりに明晰にせぬことであった。私は明晰な国語を捜すよりも、むしろ不明晰な国語を捜すのに、苦労した」といっているのは、そこのところであります。大山定一・吉川幸次郎『洛中書問』


『洛中書問』ではまだ若いお二人が、お互いが譲らずにご自分の翻訳に対する考え方のエッセンスを展開されただけ、との見方もありますし、吉川さんが読み下し文でもその姿勢を貫かれたのか、あるいはその後の変化についてなどは不勉強で全くわかりません。改めて山岡朋子さんのエッセイを読み直すと;


原文の読み方に決まりはあっても、読み下し文は解説者によって微妙に異なる。その人ならではの表現のしかた、受け止め方、感情移入の度合いの違いによるのだ。吉川さんの読み下し文を特徴づけているのは、詩人と作品に対する洞察の深さと言えるかもしれない。情感をくみ取り、それにふさわしい日本語を与えていく


の考察は、吉川さんよりもむしろ大山さんの姿勢に近い様な気がします。

私は吉川さんの読み下し文はまだ読んだことはありませんし、読んだとしても山岡朋子さんのレベルでは到底理解出来ないとおもいます。

揚げ足を取っている訳でも嫌味を言っている訳でもありません。ご自身で読まれたうえで、ご自身の感じられたところを明確に主張出来る、山岡朋子さんの姿勢を評価したいのです。