遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

ヒロシマ ・ ナガサキ原爆記念日に関する報道: 被爆者の想いは−−−

核兵器』 に関してオバマのタワゴトが役に立ったことがあるとすれば、世界中の本音を引き出せたことかも知れません;

【加害国での報道】

    • 発言;

      Title: 'I'd drop atomic bomb on Hiroshima again if needed' - Enola Gay last living member

【日米以外での報道例】

  • 「原爆の日」日本は自国の反省なしに、被害者の立場を強調−韓国
    8月7日10時58分配信 サーチナ


     −−− 韓国メディアはこの式典の模様を伝えるとともに、日本では8月になると戦争勃発や展開の過程などを無視したまま、被害者の立場を強調する雰囲気が高まると報じている。br>

     また日本の侵略戦争を否認する田母神俊雄・元自衛隊航空幕僚長が同日、日本の核武装を主張する講演を、昨年に引き続いて広島で行ったと伝えている。


     65年前に落とされた原子爆弾で、広島と長崎では約16万人余りが亡くなった反面、日本が起こした太平洋戦争の間、アジアでは約1700万人以上が亡くなり、行方不明となっている。また韓国人の被爆者は、強制徴用者を含め計7万人であり、原爆犠牲者の約10%に当たると指摘。


     また、当時の強制徴用者や慰安婦などの被害に対する補償問題は、相変らず進展していないとし、日本は原爆の被害者ではあるが、同時に加害者でもあるにもかかわらず、自分たちが犯した過ちへの反省はいまだに行っていないとの見方を示す、韓国のメデイアもみられた


    ※注 この記事はサーチナでの編集を経由していますから、実際の韓国での報道がどうであったかはわかりません。

式典に参加した無能者2人については各々 イラン核問題で「役割果たす」=広島訪問のIAEA事務局長 / 8月6日18時29分配信 時事通信 および 広島平和式典 国連事務総長が核廃絶を訴える / 8月6日11時57分配信 CNN.co.jp とのことでほっておけばよいとして、大問題だと思うのは;

菅首相、平和記念式典出席のために訪れた広島市で会見 「日本に核抑止力は引き続き必要」
(フジテレビ系) - Yahoo!ニュース、最終更新:8月6日18時37分


−−−「核軍縮に向けた強い思いは共通するが、国際社会では、核兵器を含む大量破壊兵器の拡散という現実もある」としたうえで、「引き続き、核抑止力は必要だ」という認識を示した。 (以下略)


よりによって原爆投下65回忌の今回の平和記念式典にはとんでもない馬鹿が出席したもので、これが日本の首相の言葉とは思えない。コイツは、長崎の式典・終戦記念式典でも空虚な嘘を 「御霊」 に対して捧げるつもりか? 『核抑止力』 の意味がわかっての発言か? 「こがあな いびせえ」 ことを、アメリカが他国に対して行うことを日本国としてお願いするのが国民の総意だなんて知らなかったが。これではイスラエル同様、大きな被害をもって別の加害行為を覆い隠そうとしている、と言われても反論出来ません。情けない、申し訳ない。


一方で 大江健三郎 - Wikipedia さんがNYTに以下記事を寄稿されたことが報じられています;

  • 反核、現実との矛盾に憤り=大江健三郎氏が米紙に寄稿
    8月6日17時3分配信 時事通信


    −−− また、米英仏代表が広島の原爆の平和記念式典に出席したことは「核なき世界に向けた小さな象徴的ステップに見えるかもしれない」としつつ、「反核の美辞麗句から一体どんな行動が生まれるのか」と疑問を呈した。


     その上で、「唯一の被爆国の国民として、核の傘の保護下で暮らすのが道義的責任であり、その傘を捨てるのは責任放棄だと言われたら、被爆者は怒りを覚えるのではないか」と訴えた。


NYTに寄稿された原文は以下の通り;


Hiroshima and the Art of Outrage -1/2
Hiroshima and the Art of Outrage -2/2
A version of this op-ed appeared in print on August 6, 2010, on page A23 of the New York edition.


文中、オバマプラハスピーチ以外に紹介されている記事は;


大江さんの寄稿文は;

In Edward W. Said’s last book, “On Late Style,” he gives many examples of artists (composers, musicians, poets, writers) whose work as they grew older contained a peculiar sort of concentrated tension, hovering on the brink of catastrophe, and who, in their later years, used that tension to express their epochs, their worlds, their societies, themselves.


As for me, on the day last week when I learned about the revival of the nuclear-umbrella ideology, I looked at myself sitting alone in my study in the dead of night . . . . . . and what I saw was an aged, powerless human being, motionless under the weight of this great outrage, just feeling the peculiarly concentrated tension, as if doing so (while doing nothing) were an art form in itself. And for that old Japanese man, perhaps sitting there alone in silent protest will be his own “late work."

と締めくくられています。親交の深かった エドワード・サイード 氏の定義に基づく「後期の仕事(レイトワーク)」 のことですね。


批判されることも多い大江さんですが、私はこの寄稿文には賛同しますね。