遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その51:  横浜開港150周年  (函館も!!)

立て続けに重〜〜い話題を扱っていると気が滅入って来ますので、8月13日久しぶりにヨコハマへ行って来ました。昨年2008年10月7日付け 『翻訳家 山岡朋子さん その12  国立国会図書館』 の中で2009年はペリー提督がらみのイベントが各地で開かれるので横浜へ、と書いたこともあるし、30年近く前住んでいたまちがどうなったかも見たかった。


国道1号沿いの、私が住んでいたマンションはまだ残っていました。気のせいか随分ショボくれた感じでしたが、まあそれは私も同じかも。通りの向かいにあった筈のバイクショップやらお世話になった銭湯は無くなっていましたね。小奇麗になった藤棚商店街の正式名称は 『藤棚地区商店街連合会(横浜市)』 、街頭アナウンスによると横浜開港150周年記念の150円 (クツはさすがに1,500円) の確かタイムセールをやってました;


出典: http://www.navida.ne.jp/snavi/4090_1.html


それから 【横濱開港150周年記念テーマイベント「開国・開港Y150」】 を訪問することにしたものの、なにしろヨコハマは大きいため、イベント会場も ベイサイドエリア(横浜・赤レンガ倉庫周辺)ヒルサイドエリア(よこはま動物園ズーラシア隣接地区)マザーポートエリア(横浜駅周辺〜山下・山手地区) の大きく3つに分かれていましたので、昔時々散策していた桜木町駅周辺の 横浜みなとみらい21 エリア中の 日本丸メモリアルパーク を訪問。昔とすっかり様変わりした横浜駅の表示を頼りに、東横線が乗り入れているらしい?みなとみらい線でなんとかみなとみらい駅へ、そこから道を間違えながら大汗をかいて日本丸メモリアルパークへ;


のんびりし過ぎてあまり時間が無くなってしまったので、 横浜みなと博物館 のみ一回り。歴史展示スペースには、山岡朋子さん(横山朋子さん名) も翻訳に関わられた 『ペリ−艦隊日本遠征記(英語版)』 もあったと記憶します。なおここにある ライブラリ は、リニューアル前は確か 【横浜マリタイムミュージアム・ライブラリ】 の名称で知られた海事専門図書館。私はあまり読まないまでも本はキライではありませんし、会社員時代ずっと輸出及び輸出物流に関わっていましたから、開架分の本の背は一通り眺めました。南米移民関係も僅かながらありましたのでぱらぱらっと読んでみました。HPから 蔵書検索 にて、書名の一部の単語でも検索可。ライブラリの使用のみでしたら入場料は100円で済むみたい。


さて以下特に断り無き限りウィキペディアより抜粋します。


歴史に関しては; 横浜港 参照頂くとして、要は

 出典: マシュー・ペリー
よく特徴を捉えていますね。

−−− 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航(黒船来航)。翌嘉永7年(1854年)には再度来航し幕府の態度が表明されるまでの間、六浦湊外周の小柴舳沖(武蔵金沢藩(六浦藩)=横浜市金沢区)に2ヶ月間投錨。厳重な態度の幕府や乙舳海岸に陣を張り物々しい六浦藩とは裏腹に、民間レベルでは漁師の獲った魚や艦隊側のビスケットを差し入れし合うなどいち早くフランクな異文化交流が行われていたと記録されている。その後、幕府は神奈川湊の対岸にある武蔵国久良岐郡横浜村に応接所を設置してペリー一行を上陸させ協議に臨んだ結果、日米和親条約(神奈川条約)を締結した。その後、安政5年(1858年)には神奈川沖のポーハタン号上で結ばれた日米修好通商条約安政五カ国条約)により神奈川の開港が定められた。(中略)


安政6年6月2日(1859年7月1日)、横浜港は開港し貿易を開始した。横浜市は6月2日を開港記念日としている。開港に先立ち幕府は横浜への出店を奨励する御触を出し、江戸の大商人や神奈川湊など江戸湾内の廻船問屋のほか全国から一旗揚げようと意気込む商人が集まり横浜は急速に発展した。 (以下略)


これは比較的よく知られた歴史ですが、実は北海道の 函館港 も同時期開港しており、規模は小さいでしょうが同じイベントハコダテ150 が催された様です。

−−−1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約が締結されて同日開港の後、マシュー・ペリーは旗艦以下5艦を率いて同年5月17日(4月21日)に箱館湊に入港して測量などを行なった。この際、複数の乗組員が箱館イベリア半島先端のジブラルタルがよく似ているとの印象を受けたという[5]。一方、この条約で翌1855年安政2年)から薪水や食料の補給港として箱館が開港される事になったため江戸幕府箱館付近を直轄領として箱館奉行を置き、湊の防衛と外交のために奉行所移転を進めた。1859年(安政6年)には砂洲の中央の南北方向に願乗寺川の掘割が作られ運搬用の小舟が運行できるようになり、同年7月1日(6月2日)に開港した。外国との貿易が始まると鯣、昆布などがイギリスやアメリカに輸出されたが横浜港や長崎港よりも貿易額はかなり低かった。 (以下略)



出典: 上記 『ハコダテ150』


ついでに? 長崎港 についても横浜港・函館港同様、1859年7月1日(安政6年6月2日)横浜港とともに開港場となり、湊会所(現在の長崎税関の前身)を置きましたが、長崎市としては1571年を開港の年としている様ですね;



出典: http://www.doboku.pref.nagasaki.jp/~kouwan/event/nagasaki_kaikou_20090427/20090427_nagasakikaikou.html


時間は十分あるとは言っても、さすがに函館・長崎は気軽に行ける訳ではありませんから、ぼちぼち横浜のイベントを訪問することに。