遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

64回目の終戦記念日 8月15日

64回目の、暑い終戦記念日ですね。愚行を繰り返さない様最大限力を尽くすことを誓って、戦没者の冥福を祈ります。黙とう、合掌−−−


予想はしていましたが、首相・参院議長の式辞とも、異常としか感じられませんでした;

首相: −−− 我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となられた方々に、謹んで哀悼の意を表します。 −−−


参院議長: −−− わが国の侵略行為と植民地支配により、アジア諸国をはじめ、広い地域の人々にも多大な苦しみと悲しみを与えた −−−


これが戦没者追悼式で話すべき内容でしょうか? 侵略行為・植民地支配があったのは事実ですが、それは戦没者に責任があるとでも言いたいのか? 戦争のみならず植民地支配も含めた戦争賠償・戦後補償ともに先人が日本国として艱難辛苦の末に完了しているのに、これらのコトバで何を言いたいのか? 過去積み上げて来たことを否定するってこと? 植民地支配やら侵略行為に対する謝罪はいつまでも続けるべきと云うなら、欧米先進国なんて一歩も先に進めない。いつまでも戦後を引きずることで何を狙っているのかが全く見えない。次の政権に対するイヤがらせ? 自虐史観と云うより政治屋の勘違い。自分の馬鹿さ加減を 『国際社会』 にアピールしている様なものです。コイツらに式辞を述べる資格などありません。こんなのが日本を代表することを許している我々有権者が馬鹿と見られますから、本当に情けない。海外での受け止められ方はどうなのか、大変心配。


ウィキペディア に限らず様々なサイトで説明がなされていますが、まず 『終戦記念日』 の定義を。昔学校で習った覚えはありますが、リフレッシュの意味で;

1.1945年8月15日: 日本軍の戦争当事者である昭和天皇が、戦争の終結を国民に告げた日。
2.1945年9月2日:  ポツダム宣言受諾の降伏文書に調印した日。
3.1952年4月28日: 日本本土において、第二次世界大戦後の米軍占領が終わった日。
4.1972年5月15日: 沖縄において、第二次世界大戦後の米軍占領が終わった日。


64年前の今日、いわゆる 『玉音放送』 が流された訳です。この録音は ウィキペディア 『玉音放送』 からも聴くことが出来ますが、YouTube から以下紹介します;


題名: 終戦詔勅 (玉音放送
この動画では、中央に実写画像、右に音読に相当する詔勅、左に現代語訳が表示されています。大変わかり易いもので、製作者に感謝。


また終戦記念日に際し、国立公文書館アジア歴史資料センター で、終戦に関するものを中心に太平洋戦争にまつわる資料が公開されています。一見の価値アリ;


url = http://www.jacar.go.jp/shusen/index.html


ここ何日か、本来私の手には負い切れないほど広くて重たい話題について相当苦しみながら書いて来ましたが、本日終戦記念日をもっていったん(理由は後記)終了。最終回の今日は、私が茶番あるいはリンチと認識する東京裁判 (正式名称は 極東国際軍事裁判 ) について考察を試みます。なおリンクは断わり無き限り全て日本語版ウィキペディアです (私は内容が100%正しいとは思いませんが、参加者で創り上げるネット百科事典としてのこのサイトの在り方には賛同しますので。);


当シリーズ?その1で;

と記しましたので、概ねその順に展開しますね。


●裁判の公平性について


法的な側面について私が持っている知識は門前の小僧レベルなので、以下ウィキペディアより引用します;

概要


罪状は東條英機首相を始め、日本の指導者28名を「文明」の名によって世界征服の責任を裁くというもので、通常の戦争犯罪に加えて「平和に対する罪」でも起訴されたが、裁く側はすべて戦勝国が派遣した人物だったことから、"勝者の裁き"とも呼ばれる

ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク法廷が連合国の管轄下にあったのとは違い、本裁判はダグラス・マッカーサー司令官が布告する極東国際軍事裁判所条例に基づいて行われた。

そもそもチャーター(極東国際軍事裁判所条例)は国際法に基づいておらず、この裁判は政治的権限によって行われたとの批判があり、「事後法」や連合国側の戦争犯罪が裁かれない「法の下の平等」がなされていない不備など批判の多い裁判ではあったが、平和に対する罪などの新しい概念を生み出し、戦争犯罪を裁く枠組みをつくりあげる第一歩となったという評価もある。

評価


(中略) 具体的な研究としては裁判の公平性に関して次のような論説がある。

    • 審理では日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)がほぼ却下されたのにも拘らず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった(東京裁判資料刊行会)。戦勝国であるイギリス人の著作である紫禁城の黄昏すら却下された。
    • 上記に反論 - 検察側の提出した証拠と弁護側の提出した証拠のうち、却下されたものも採用されたものもほぼ同数であり、起訴された人が審理において格別不利に扱いを受けたというわけではない(粟屋憲太郎ら)。
    • 判決文には証明力がない、関連性が無いなどを理由として「特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された」とあり、裁判所自身これへの認識があった。
    • 条例で定めているはずの日本語通訳が弁護人陳述中、途中で打切られることがあり速記録にさえ残らなかった。
    • また、日本語通訳の能力不足から、通訳が適切に行われないことも多かった。


上記は主に形式からの判断と思いますが、これでは現代の裁判とは呼べず、正に西部劇に描かれたリンチ・縛り首でしかありません。戦争裁判とはそんなもの、と云うことかも知れませんが。サダム・フセインを処刑するに至ったお子ちゃま裁判と同レベルですね。


ただし日本の場合、通常有り得ない 『無条件降伏』 であったことは考慮すべきか?

  • 古代から近代に到るまでの無条件降伏は、元首すなわち部族長、盟主、王などの身柄や生殺与奪の引渡しと武装解除に象徴されているが、統帥権の分立している近現代国家においては無条件降伏の判断要件は容易ではない。また 戦時国際法 の元では近代以前の意味での無条件降伏や投降は成立しない。
  • 国家が無条件降伏をしている場合、講和条約を締結するさいに戦勝国にこの条件で条約を受諾せよと提示された場合、法理論的には受諾しなければならない。
  • 日本国軍隊はポツダム宣言九条の条件(term)の下で無条件降伏した。
  • 政府の場合は、降伏が無条件の降伏ではなかったとする説と、無条件の降伏であったとする説とがある


降伏の形態は裁判とは関係ないのかな?


●たったひとりで裁判への異論を唱えた判事さん


これは、ラダ・ビノード・パール (英語:Radhabinod Pal, ベンガル語:রাধাবিনোদ পাল, ヒンディー語:राधाबिनोद पाल, 1886年1月27日 - 1967年1月10日) さんを指します。蛇足ながら、英語版 Wikipedia での紹介記事はプア。ネットの世界でも、リアルの世界での評価が反映されるのは少々悲しいですね。


一部抜粋では私の思い入れは伝わりませんから、最低限リンク先ウィキペディアの記事を参照して欲しいですね。私の東京裁判に対する評価は、パールさんの提出された意見書およびヒロシマナガサキ原爆投下に対するコメントによるところが大きいのです。インドの判事さんですから、旧宗主国であるイギリスと対峙された経験も豊富であった筈。カネまみれのアメリカの弁護士は心から軽蔑しますが、必ずしも中立であった訳ではないにしろ、孤軍ご自分の信念と法律解釈に基づいて主張されたパールさんの筋金入りのプロとしての姿勢も生き方も心底尊敬しています。


パールさんについて初めて知ったのは、確か学生時代。今回一連の話題を書くにあたって様々なサイト (紹介出来なかったウィキペディアの記事は末尾にリンクを置いておきます) を眺めていて鮮明に思い出しました。今日の記事(の真似ごと)を書くにあたって少なくとも1冊読んでおこうと考えたのですが、いかんせん読むに値する書籍は皆相当の分量があり断念。これは来年の終戦記念日までの宿題とせざるを得ません。(辞書では無い文庫本でも1冊800〜900ページなんてのがあるとは−−−おまけに上下2巻)


パール判決書全文(英文)が出版された際の 東京裁判・原典・英文版―パール判決書: 刊行の辞 獨協大学教授 昭和史研究所代表 中村 粲: 出版社: 国書刊行会 (1999/07) ISBN-10: 4336041105 ISBN-13: 978-4336041104 へのリンクです。


●原爆投下に関する東京裁判での記録


ウィキペディアによれば、そもそもこの裁判では原子爆弾の使用など連合国軍の行為は対象とされなかったとのこと。勝てば官軍。この論理によるなら、もしドイツが勝っていたらホロコーストも不問に付された訳で、 (ただ実際にはニュルンベルク裁判は連合国の管轄下にあったので、そうはならなかったかも) やりきれませんね。


■総括


東京裁判が茶番であったとしても刑は執行済みでもありますから、判決のみならず裁判そのものが遡って無効であると主張することに私は何の意義も見出せません。国際法上も既に判例として認められている様ですし。しかし、我々が国内でそれをどう解釈するのかは引き続き議論されるべきですね。


では、東京裁判では裁かれなかった連合国軍の行為を裁くことはどうなのか? 戦争裁判ではなく 人道に対する罪 で裁く可能性はあると思いますし、その意義は今こそ十分にあると考えます。何年先のことかわかりませんが。


最後に、今回読了出来なかった 『パール博士 「平和の宣言」』 田中正明 編著、出版社: 小学館; 復刊版 (2008/02)、ISBN-10: 4093877718、ISBN-13: 978-4093877718 から以下抜粋してこのシリーズを終えます:

[91〜92ページ]


1952年11月5日中の島平和記念公園を訪問され、花崗岩に刻まれた 『安らかに眠って下さい、過ちは、繰り返しませぬから』 の碑文を通訳を介して二度も三度も確かめたうえで、


この”過ちは繰り返さぬ”という過ちは誰の行為をさしているのか。むろん日本人をさしていることは明かだ。それがどんな過ちであるのか、わたくしは疑う。ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたものは日本人でないことは明瞭である。落としたものの責任の所在を明かにして、”わたくしはふたたびこの過ちは犯さぬ”というのなら肯ける。

 この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。ただし、過ちをくり返さぬということが、将来再軍備はしない、戦争は放棄したという誓いであるならば、非常にりっぱな決意である。それなら賛成だ。しかし、それならばなぜそのようにはっきりした表現をもちいないのか」


明らかに占領下の卑屈になった日本の指導階級の”何もかもわたしが悪うございました”という、罪悪感を背負った詫び状の残滓である。


国民がその良心にゆがめられた罪悪感をになって卑屈になっているあいだは、進歩も発展もない。原爆を投下した者と、投下された者との区別さえもできないような、この碑文が示すような不明瞭な表現のなかには、民族の再起もなければまた犠牲者の霊もなぐさめられない


この言葉、57年後の今日もそのまま当てはまります。つまり、我々は57年の間何も学んでいない、進歩していないと云うことになりませんか???


●リンク集 (全て日本語版ウィキペディア

戦争犯罪

平和に対する罪

侵略戦争

日本の戦争犯罪



※ 奇しくも今日は、応援ブログ書き出してからちょうど100投稿日目です。復刊を試みようとしている、山岡朋子さん(横山朋子さん)翻訳の 『ルス、闇を照らす者』 はアルゼンチンの暗部を扱った小説ですが、読み物として秀逸であると同時に歴史の俯瞰でもあります。今回日本の関わった戦争に関する歴史資料を色々読むにあたって、質のよい翻訳の重要性を再認識した次第。