遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その40: 文と書き手の関係 その1

文は人なり』 と云うコトバがあります。これはフランスの博物学者ビュフォンの言葉 " Le style est l'homme meme "、 英語なら " The style is the man (himself) " として有名です。直訳すると 『文体は書き手自身である』 でしょうか。しかしながらより正確には;

http://thu.sakura.ne.jp/others/proverb/
《故事・ことわざ・四字熟語》 辞典 より


文章を見るとその人の人柄が分かるということ。フランスの博物学者ビュフォンが、1753年、アカデミー・フランセーズの新会員となったときの入会演説『文章論』に基づく。本来的には、文章とは人間の精神活動そのものであり、人が思考の中に配置する秩序と運動に他ならないから、盗まれたり持ち去られたりするものではないの意だという。

と云うことらしい。一方、そうでは無いと云う意見もあります。例えば;

http://www.h2.dion.ne.jp/~kisohiro/bunsho.html
斎藤美奈子/文章読本さん江 (筑摩書房、 2002年)より抜粋


--- で、この本の結論ですが、

文は人なり」という古い格言(文章読本はこれが大好き)は正しくない、ということです。
<文章とは、いってみれば服なのだ。「文は人なり」なんていうのは役立たずで、ほんとは「文は服なり」なのである。>(250ページ)
文章は、思想(というか考え)に形を与える包み紙みたいなもので、時流によって変化するもの。---


以上は受け売りレベルのハナシですが、以下自分自身の体験に基づく私見


私は耐久消費財メーカーの人間ですが、製品は間違いなくメーカーのフィロソフィーや 「有り様」 を表しています。正に 「製品はメーカーなり」 です。製品を通じてそのメーカーに惚れ込むこともあるし、嫌いになることもありますよね *1 。それは形のあるハードウェアのこともあるし形の無いソフトウェアやサービスのこともありますが、構成が複雑であればあるほどその傾向は強いと思います。類似製品が沢山あっても、メーカー間の微妙な違いが必ずある。何故か? メーカーとして一貫性のある製品を、品質を維持しながら継続的に開発・生産・販売・ケアしていくことを可能にするのは、唯一その企業のDNAだから。つまり、企業全体がひとりの職人さんの様なもの。


また、ある程度の経験を積んだ人なら、同じ会社や業界・専門分野での仕事一般について、その結果あるいはアウトプットからそれを行った人がどんなレベルにあるかかなり正確に判断出来ますし、電子メールの文面からはそれを書いた時の背景のみならず、書いた人の人柄までわかることが多い。


−−−「文章」 の目的が何かを伝えることにある (ただし小説を除きますよ) とすれば、幾つかの構成要素に分けて考えるのもアリかな、と思います。例えば;

  • 「文」 とは、伝えたいことを表す単語が正しく理解される語順で並べられたもの。「文体」 と不可分の関係にある:
    書き手によってそんなに変わらないハズ
  • 「文体」 とは、目的にとって最善と思われるコトバの選択・表記方法・論理の運びなど。「文」 と不可分の関係にある:
    書き手および目的の両方に左右されるハズ
  • 「個性」 とは、読んでそれとわかる書き手の個性。必ずしも必要では無いかも知れないが、「文」 と 「文体」 に輝きを与えるもの:
    これは書き手のみに帰属するハズ


だとすると、たとえ書きたい・伝えたいことは同じでも、書く人が異なると、結果としての文章が同じになることはあり得ません。では同じ人が書いたら? それでも置かれた状況やら発信方法や媒体によって異なる筈です。極端に言えば、同じ文章がアウトプットされることはあり得ない。これが上に挙げた、 『文章は、思想(というか考え)に形を与える包み紙みたいなもので、時流によって変化するもの』 と云うことですかね。


でも; 何か必要があって自分を偽って文章を書くことはそんなに難しくはないでしょうが、たくさん書くことはまず不可能です。一般的に嘘を貫き通すのは至難のワザですから。上の例に倣って服だとすると、何着かの服は皆持っているでしょうが、毎日取り換えるのは無理。結局服の好み (=自分のカラー) やらサイズ (=能力) によって限定されますからネ。


確かに少ない文章だけで書き手を判断することは大変危険ですが、ある程度の量の文章を読むならば、ビュフォンの言葉 『文は人なり』 は、その元の意味 「文章とは人間の精神活動そのものであり、人が思考の中に配置する秩序と運動に他ならない」 が書き手の個性を包含するのは明らかですから、正しいと考えます。書かれたものを読んで、あ、これはいかにもあの人らしいなって感じることはよくありますよね。


&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&&

何故こんな、ガラにも無い考察を行おうとしているか? 『文は人なり』 を越えて、文章を読んで惚れ込んだ書き手が二人いらっしゃるからです。一人はフラメンコの深淵に私を引きずり込んでくれた勝田保世 *2 さん、そしてもうひとりがこのブログの主目的である山岡朋子さん (あるいは横山朋子さん、山岡とも子さん)。


大それた試みであり完全に私の能力を超えていますから、どうまとまるのか不安ですが、とりあえず次回は勝田保世さんについて想いを書いてみることにします。

.

*1:あくまで製品そのものについて。苦情への対応やら宣伝の巧拙などは除外して考えます。まあこれらも無関係では無いのですが。

*2:しょうだ・ほせ さん 1907年〜1978年

以下 株式会社 音楽之友社 1978年11月20日初版 「砂上のいのち  フラメンコと闘牛」 著者略歴 より抜粋

--- 東洋音楽学校を経て1930年5月、イタリア、スペイン、フランスに音楽研究のため渡る。一時帰国後、1937年再渡欧、主にスペインで生活。1946年帰国。戦後は帝劇、宝塚などでフラメンコギターの演奏活動を続ける一方、映画「黄戦地帯」「永遠の人」の音楽を担当した。---