遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

津軽三味線: 高橋竹山さんのこと

高橋 竹山(たかはし ちくざん、1910年(明治43年)6月 - 1998年(平成10年)2月5日)は全盲津軽三味線奏者。本名高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者である。 演歌歌手北島三郎が歌った『風雪流れ旅』のモデル。(ここまで ウィキペディアより抜粋、url = http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%AB%B9%E5%B1%B1

写真の出典:
高橋竹山 - 『梁塵秘抄』 または ”わしふぃーるど” - 楽天ブログ(Blog)
http://plaza.rakuten.co.jp/ekatocato/3033 より抜粋



幾らなんでも津軽三味線と翻訳やら横文字は関係なさそうなのですが、私の場合おおありで;

フラメンコギターと津軽三味線の類似点が多い*1のに気付いていたことがきっかけで、学生時代、当時渋谷の山手教会の地下にあったライブスペース『ジァンジァン』で確か月いちで開催されていました、高橋竹山さんのライブへ何度か通いました。

当然マイク無しですが、腹に響き情景を目に浮かばせる三味線の名人芸は勿論のこと、演奏の合間の(いや、逆かな?)竹山さんの気取らない、あったかい喋りと訛りに引き込まれましたっけ。一度フラメンコのギタリストを引っ張っていったことがありました。狭いライブ会場で少々周りのヒンシュク買いながら通訳(のまねごとを)しましたが、さてどこまで想いが通じたか。

竹山さんはその後86年にアメリカ公演をなさって高い評価を得られたそうで、嬉しい限りです。


The New York Times より
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9A0DE6DB1F39F936A2575AC0A960948260


−−−渋谷ジァンジァンは確かオーナーさんの強い意思で当初の計画通りに閉鎖され竹山さんも亡くなられた今、このブログを書くまで津軽三味線から遠ざかっていましたが、ジァンジァンで聴いた音も喋りも私の意識の奥底に残っています。

上掲ブログから、竹山さんのコトバを引用します;


「びんぼうは、なんもおっかねえもんではなかった。金がないだけで、あたまやむ(あたまがいたくなる)わけでねえし、はらいたくなるわけでもねえ。

ただねえ。ひとがいっしょうけんめいやろうというとき、目のまえへでてきて、ばかにしたり、じゃましたりするやつが、いちばんにくかったね。

ひとがいっしょうけんめいに生きようとするのをじゃまするものには、けっしてまけない」


このコトバは、ライブの際だったか書籍だったかでも聴いたか読んだ覚えがあります。それ以来肝に銘じていることのひとつ。

また、上掲ブログ中でも紹介されている、音楽そのもの・奏法などに関する竹山さんの言葉は、フラメンコの唄伴奏に限らず音楽一般に通用しますね。音楽だって翻訳の一種ですから、当然翻訳にも通ずるものがある。基本的な技巧について訓練を積むのは当然のこととして、何を吸収してプラスαをどれだけ付加できるか。竹山さんの場合は、視覚障害とそれに対する差別を乗り越えられて更に、と云うことですから、まして容易なことではなかった筈ですが、それを楽しんでおられたのでは?



伝統の世界では異端児扱いされることもある様ですが、津軽三味線と云う一地方の特殊な芸術を伝承するにとどまらず、更に認知させ発展させて行くのには欠かせない存在だったとおもいます。フラメンコも似たところがあります。ジャズやブルースもしかりでしょう。

*1:フラメンコギターの場合の右手(左利きなら左手)親指の使い方と津軽三味線の撥の使い方が酷似、どちらも伴奏(唄づけ)においても唄い手の即興に応じた演奏をしなければならず名人芸が存在すること、演奏者が被差別者;フラメンコの場合はジプシー、三味線の場合は視覚不自由者;であったことなど。