遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

コロンビア 独立200周年 : 前途多難

本日2010年7月20日は、南米コロンビア共和国の200回目の独立記念日 (Día de la Independencia) に当たります。10年以上に渡るスペインからの独立運動の中でこの1810年7月20日は;


「アントニオ・ナリーニョ指導の下ボゴタでクリオージョを主体としたフンタが結成されクンディナマルカ共和国が成立、ナポレオンに支配されたスペイン政府からの独立とフェルディナンド支持とを宣言し副王を追放した *1


日と云うことになっていますが、実際この日に起こったことは少し違う様です;

20 DE JULIO “ACTA DE LA INDEPENDENCIA” CABILDO EXTRAORDINARIO DE SANTAFE DE BOGOTA
Biblioteca Luis Ángel Arango

  • Independencia de Colombia - Wikipedia, la enciclopedia libre より関連部分抜粋


    El 20 de julio en Santa Fe


    Los sucesos de Santa Fe del 20 de julio de 1810 tienen la importancia de haber ocurrido en el centro del poder colonial del Virreinato de la Nueva Granada. Con la deposición y el arresto del Virrey, el Virreinato dejaba de existir de facto. El plan era aprovechar la llegada del Comisionado Regio Antonio Villavicencio a Santa Fe, para hacer relucir las diferencias entre los chapetones y los criollos y formar una reyerta en medio del día de mercado. En medio de la reyerta se arengó al pueblo a exigir cabildo abierto, el cual fue utilizado para deponer a la Real Audiencia y crear una nueva Junta de Gobierno. Las milicias en Santa Fe estaban comandadas por Antonio Baraya.
  • El grito de La Independencia
    (副題) El 20 de julio de 1810 fue el inicio de unos sucesos determinantes que cambiaron la historia de lo que hoy conocemos como Colombia. より関連部分抜粋


    −−−La llamada "Acta de Independencia" de Santa fe no era realmente una declaración propiamente de independencia, pues como lo afirma el mismo documento, esta no pretendía (en nombre de la Nueva Granada) "abdicar los derechos imprescriptibles de la soberanía del pueblo a otra persona que a la de su augusto y desgraciado Monarca don Fernando VII". En contraposición, otras "actas de independencia", como la que se promulgó en la ciudad de Mompos (del 6 de agosto de 1810) sí buscaron una real independencia de España.


    Según el historiador colombiano Germán Mejía, "El 20 de julio es un movimiento bogotano, local, y genera un problema inmediato que además tiene pretensiones sobre las otras juntas que se estaban dando en el país. La pretensión consistía en definir lo que iba a ser el territorio de la Nueva Granada. Es el triunfo del centralismo sobre la realidad de las provincias de principios del siglo XIX. Los criollos tuvieron el papel de construir la primera República. El 20 de julio que nosotros entendemos hoy en día es el fabricado a finales del siglo XIX y no lo que sucedió a comienzos de este siglo". (以下略)


本年6月22日付け 『 ■コロンビア新大統領: 内戦を終わらせることが出来るか?』 で紹介しました様に、8月7日就任予定のフアン・サントス新大統領に統治されるコロンビア国民の前途は、現ウリベ大統領同様に極端な親米政策が続行すると思われるため多難と言わざるを得ません。特にアメリカ主導による、 『麻薬撲滅』 の美名の下実質中南米支配の道具である "Plan Colombia" が癌と思います;

  • 'Plan Colombia' Turns 10 -- Looking at the Effects of Bill Clinton's Signature Drug War Project
    July 16, 2010, Drug War Chronicle / By Phillip S. Smith AAlterNet 掲載)


    −−−Plan Colombia under whatever president is not going to solve Colombia's drug problem -- nor America's, said Isaacson. "At home, we need to reduce demand through treatment and other options," he said. "In Colombia, as long as you have parts of the country ungoverned and as long as members of the government have nothing to fear if they abuse the population, there will always be drugs. Colombia needs to build the state and do it without impunity. We built up the Colombian military, but there was no money for teachers, doctors, or any public good besides security."
  • プラン・コロンビア概説
    2000年7月 ギャリー・リーチ / コロンビア・レポート原文
    (益岡賢さん翻訳 2002年3月4日、益岡さんHP掲載)


    元記事掲載のサイト "colombiajournal.org" は、幾つかの記事は残っているものの、ここ何ヶ月か "currently UNDER CONSTRUCTION" の状態です。以下同じ。


    −−− 米国援助パッケージの8割がコロンビア軍と警察に行くという事実は、プラン・コロンビアが平和の政策ではなくて戦争の政策であることを証している。社会経済的問題に充てられる残りの2割は見せかけの飾りであり、コロンビアの社会経済的問題を真面目に問題にしたり、コロンビアの政治・経済エリートの地位を脅かすような、体系的な変革を提案してはいない。


    コロンビア社会の経済的下層階級についていうと、多くのカンペシノたちが、軍事攻撃が始まると死と追放に直面することになろう。これにより、経済的にあえいでいる都市部にさらに追放された人々が集中するだろうが、都市は、IMFが強制した節制と調整の政策のために、増加する失業と貧困の問題に対処する力を備えていない。人口の追放は、対立を国際化するだろう。というのも、国境を越えてエクアドルに向かう難民の数が劇的に増えることが予測されるからである。


    プラン・コロンビアの軍事部門と経済部門が大多数のコロンビア人にとって利益とならないことは明らかである。けれども、そもそもそれは目的ではない。プラン・コロンビアの意図はFARCを撲滅し、それによって、コロンビアの歴史を通してコロンビアのエリートと海外のビジネスが膨大な利益をあげてきた政治経済的構成の現状を維持することにある。プランの副題が示すように、プランは「国家の平和・繁栄と強化」を目指している。これはつまり、政治経済的エリートにとっての平和、政治経済的エリートにとっての繁栄、そして、政治経済的エリートが支配している国家の強化ということなのである。


    この記事が書かれてから10年経ちますが、観方の正しさが結果から証明されていると思います。例えば−−−
  • プラン・コロンビア:アフガニスタンでの新たな軍事戦略?
    2009年3月30日 ギャリー・リーチ / ColombiaJournal原文 (益岡さんHP掲載)


    −−−ミューレンをはじめ、プラン・コロンビアのモデルをアフガニスタンに移入せよと主張する面々は、この数年、コロンビアの人口の集中する都市部で治安が改善され、殺人や誘拐が劇的に減ったことを指摘する。実際、それら治安改善からかなりのコロンビア人が恩恵を受けているが、ミューレンをはじめとする面々は、「治安」の確立がもたらした人道危機、そしてプラン・コロンビアが対麻薬作戦としては完全に失敗したことを都合よく無視している。 (中略)


    プラン・コロンビアのこうした記録を考えるならば、ミューレンが示唆するようにアフガニスタンで同じモデルが適用されるならば、人口の多い都市部で治安が改善され暴力が減るだけでなく、大規模な人権侵害と大規模な難民危機、記録的なケシ栽培ももたらされる可能性がある。


    アフガニスタンの場合コロンビアと比較出来ない部分が多いものの、人権と麻薬についてはこの通りに進んでいます。更にアメリカはアフガニスタンでとんでもない提案をしており、呆れるばかり−−−
    • <アフガン>米が「自衛組織」提案 武器ばらまき懸念も
      7月19日21時26分配信 毎日新聞


       【ニューデリー栗田慎一】アフガニスタンの安定化を探るカブール国際会議が20日、開かれる。これを前に、米政府はアフガン政府に対し、駐留外国軍やアフガン治安部隊がカバーできない地方の人々に武器を渡して村単位の「地方警察」を組織させ、武装勢力から自衛させる「治安改善計画」を提案した。 (以下略)


      この 『地方警察』 組織は、正にコロンビアの人権侵害に対して最大の責任を負う極右の準軍組織そのもの。アフガニスタンでは、タリバンや腐った警察顔負けの人権侵害加害者である軍閥に、今度は武器と権限を与えようと云うのか??? 全く狂気の沙汰。コロンビアを見なさいよ、治安改善だって?


以下、アルジャジーラ記者がコロンビア大統領決選選挙投票日前日(6月19日)に行った コロンビア革命軍 Fuerzas Armadas Revolucionarias de Colombia、通称 FARC) とのインタビュー記事を紹介します;

The FARC side of the story
By Teresa Bo in Americas on June 20th, 2010, Al Jazeera Blogs


−−−Duber said the Farc is not trying to influence people to vote for any candidate in the election. For the Farc, all of the candidates are the same. But the group did send a message to Juan Manuel Santos, who could become on Sunday Colombia's next president.


"[If] Juan Manuel Santos wants to continue the war, then we are ready to fight. If there are conditions for peace talks then we could sit down and talk. But it's difficult. Santos has killed lots of innocent people while trying to kill us."


When the interview was over, the Farc opened up the check point and went up into the mountains. They seemed ready for another fight.


FARCは、泣く子も黙る? 左翼ゲリラでありコロンビアの敵No.1として認識されています。それは一面では正しいものの、1964年5月27日 (7月20日とする説もアリ) に自由党系の武装農民運動として結成されて以来既に46年も存在し続けている事実をどう考えるか? 上掲 プラン・コロンビア概説 中でも 『−−−プランは、コロンビア軍の役割を全く無視し、1950年代、ラウレアノ・ゴメス大統領のもとの保守党政権時代およびグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍の軍事独裁下において、軍が自由党共産党を支持する農民に対して行った暴力を全く無視している。1950年代に、軍による地方の農民に対する虐殺から身を守るために結成された農民の自衛団が、1960年代にFARCへとなっていったのである。』 と紹介されています。 背景については 暴力の50年 / 1999年 ギャリー・リーチ(コロンビア・ジャーナル原文) (益岡賢さん 2002年3月12日 翻訳) も参考となります。私個人的には、このギャリー・リーチさんの観方を支持しています。即ち−−−

  • もし政治・経済・軍事支配エリートたちが、準軍組織の協力を得て、真に民主的な改革を妨害し続けるならば、コロンビアの「民主主義」の崩壊は避けがたいかもしれない。 −−− 


    ワシントンは、ゲリラの勝利を阻止するために、再び、右翼死の部隊と密接な関係を持つ抑圧的な軍を支援しようとしている。このような政策は、コロンビアの人々の苦悩を長引かせるだけである。今も多くの人々は、日常的な虐殺、拷問、失踪、誘拐、強制移送の犠牲になっている。


    対立を平和的に解決できるかどうかは、政府とゲリラの交渉が可能であるような状況をつくりだすために、政府が準軍組織を解散できるかどうかにかかっている。そのとき、そしてそのときにのみ、対立の政治的・社会的・経済的原因に取り組むことが可能になるだろう。


新大統領はコロンビア有数の財閥であるサントス一家の一員。準軍組織と密接な関係を持ち、アメリカ軍べったりの政策を採ることで力で不都合な勢力を叩き潰そうとする姿勢が変わらなければ、国内の民主化も人権問題の改善も有り得ない。隣国との関係は更に悪くなるだろうし、独立記念日に言っちゃあ悪いが、お先真っ暗。

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*1:鈴木頌さんの労作 コロンビア年表 その1:ボリーバルの死まで からの抜粋


鈴木 頌 (しょう) さんの紹介;
勤務先 (記事掲載時)
道東勤労者医療協会(勤医協) 協立病院医師,内科・循環器
北海道アジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯委員会(北海道AALA)副理事長