遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

翻訳家 山岡朋子さん その17  ことばは生きている、ということ

いずれも既に紹介済みの野谷文昭さんの記事と、山岡朋子さんエッセイを再度読み直すと;

http://book.asahi.com/special/TKY200711050224.html
朝日新聞 2007年10月26日朝刊掲載
ドン・キホーテセルバンテス 集大成の訳と、成長中の訳 野谷文昭さん より抜粋

−−− キホーテやサンチョの名言をじっくり味わおうとするなら、黙読に向いた牛島訳を読むといい。読者は作者の声に耳を傾ける一方、頷(うなず)いたり呆(あき)れたりしながら二人の会話に参加したくなるだろう。荻内訳を読むと、読者は主従二人を自ら演じたくなるかもしれない。言葉に勢いがあるので、戯曲のように読むことができるからだ。−−−

一方、

http://shuppan.sunflare.com/essays/yamaoka_2.htm    
WEBマガジン出版翻訳 エッセー:翻訳の現場から
新訳ブームに思う  山岡朋子さん    より抜粋

−−− 村上春樹氏のチャンドラー新訳が出た。田口俊樹氏の新訳も出るらしい。チャンドラー作品はいろいろな人がすでに手がけているが、清水俊二氏の訳で慣れ親しんでいる読者が多いのではないだろうか。フィリップ・マーロウイメージがすでに出来上がってしまっているところに新訳を出すのは勇気がいる。すごいなあと思い、いいなあとも思う。できることなら「わたしのマーロウ」も世に出してみたいとひそかに念じている。−−−


おもしろいですね、原典はひとつなのに翻訳のコトバによって性格が変わってしまう。『翻訳者の』ドン・キホーテサンチョ・パンサ、マーロウが生まれる。原典はひとつとは言っても、原語で読む人の数だけ読み方・感じ方があるので、原典も同じか。

レベルが低くて申し訳ないが、長年親しんだ漫画が動画(テレビや映画)化された時、あれ、随分イメージと違うなって感じたことありません? 特に漫画の中の登場人物の声は読む人の中で自然とイメージされているのに、動画化されると声優xxxさんの声になってしまうからでしょうね。

翻訳者の裁量が大きい分、責任も大きいですね。


野谷文昭さんの同記事中に;

時代が変わり、読みに変化が起きたり、人々の言葉に変化が生じたりするとき、さらに新たな翻訳が生まれる可能性があることは、未来の読者にとってひとつの希望となるだろう。

一方山岡朋子さんの同エッセイ中に;

ことばは時代と共に変わっていく。古典の新訳が出てくるのは当然の流れかもしれない。


ことばは生きているので、時間が経つにつれ、より時代に即した翻訳に対する需要が生まれます。しかしこれはことばだけのハナシではなく、媒体についてもまた真なり。同じ本でも装丁が変わる(パラフィン紙の岩波なんて、懐かしいですね! 山岡朋子さん、本当に幅広く本を読まれてますね)、活字から漫画へ、アナログからデジタルへ、猛烈な勢いで変わりつつある。

先日エキナカの本屋を冷やかしていたら、劇画版xxx、『超訳』xxxの形で古典的な作品を随分見かけました。いわゆるe−ブックなるものも増えたし、読み上げ機能付きのものまである。

さて、翻訳は付いて行けるかな? 日本の漫画文化を軽く見てはいけない。ビジュアル・オーディオだって、今日びケータイで何でも出来るんだから。活字を軽視する訳ではないが、視野を拡げて損はありませんね。

−−−

エキナカで、何と『蟹工船』の漫画版をみかけました。古典の、若者向け復活ですよね。以下サイトへアクセスしてごらんなさいな;

http://www.eastpress.co.jp/manga/index2.php
ウェブ名作・傑作文学をマンガ化: コミック文庫「まんがで読破シリーズ」

本シリーズでは、近代文学の名作・傑作・問題作を中心にその作品の真髄を捉え、徹底的に漫画化していきます。親しみやすい「まんが」で名著の作品世界をお楽しみ下さい


これらが活字版古典へのゲートウェイになるのか、これこそが新生『古典文学』なのか、気になりますね。幾つか読んでみたいのはやまやまですが、

昨日配達された "A VENTE ANYO, LUZ" に集中しないと年内に読破できなくなるし−−−