遊蕩爺の漂浪メモ

『翻訳家 山岡朋子ファンクラブ初代会長の日記』 より移行

アメリカに侵攻されたパナマ; そういや、 ノリエガ将軍ってどうなったのだろう?

1989年12月10日から開始された米軍 (父ブッシュ政権時) の パナマ侵攻 (ウィキペディア) による混乱の中、翌1990年1月31日にアメリカ軍に投降して戦争捕虜となった独裁者ノリエガ将軍が、17年の刑期を終えたのちパナマへ送還されるとかフランスへ引き渡されると云う報道が一時期なされました;


マヌエル・ノリエガ (ウィキペディア) には『−−−フロリダ州マイアミで服役中だったが、2007年9月9日に釈放された。』 と記載されていますが調べてみるとこれは明らかな間違いで、実際にはアメリカ政府が決定を先延ばしにしているためまだマイアミで服役中のまま? の様子。スペイン語版・英語版 Wikipedia では正しく記載されていますが;


最近の記事を拾ってみると;

    • ※ 15年?  どうも刑期の計算のしかたがよくわかりません。これだと1993年から服役ですから、3年ブランクが−−−


ノリエガ将軍が独裁者であったことに異論を唱える余地は無い筈ですが、アメリカによる侵攻の口実は非常に胡散臭いものであったことを覚えています。丁度その前後に南米から帰国してバタバタしていたためか、私はその経緯についてどの程度報道されたのかよく覚えていませんが、上掲ウィキペディアに以下記載アリ;

  • 侵攻作戦は「麻薬撲滅」と「独裁政権打破」を大義名分に掲げて行われたが、1999年にアメリカがパナマへ返還しなければならなかったパナマ運河に関する交渉を有利に進めるためだったとも考えられている。また一部では、ブッシュ大統領がCIA長官時代に、ノリエガ将軍による左派政権撹乱協力の見返りにコロンビア産コカインの密輸入を秘密裏に容認していたため、アメリカと対立を深めていたノリエガ将軍の口を防ぎ、自身の政治生命を守るために電撃的に発動した説がある。 (中略)


    麻薬撲滅という大義名分を掲げての侵攻だったにも関わらず、21世紀初頭のパナマの麻薬流通量はノリエガ時代の2倍に増加した。これはそれまで「国家」によって統制されていた麻薬の取引網が開放されたためと伝えられる。 (以下略)
  • 情報統制


    この戦争において、アメリカ政府は情報統制を行い、侵攻期間中の4大ネットワーク各局は、攻撃を受けたパナマ市民への取材はあまり行わず、英語を理解し、侵攻に賛同する裕福な白人住民層の意見を中心に放送した。


    また、アメリカ軍の被害、死傷者数は積極的に報道したが、パナマ軍やパナマ市民がどれほど被害を受けているかについては、アメリカ国内向けにはあまり伝えられなかった(なおパナマ市民の死者は1,000人から4,000人に上るとみられている)。この情報戦略は2年後の湾岸戦争でも生かされることとなる。 (以下略)


今釈放されても既に76歳近いですからもう表舞台に出ることは無いだろうし、フランスで10年服役するにしてもパナマで20年服役するにしても獄死でしょう。アメリカに濡れ衣を着せられたのでしょうが、軍事独裁者の末路としか言い様が無い。


ウィキペディアから再度引用しますと; 「ノリエガは、1950年代からCIAのために働いていたことも明らかになっている。ノリエガはブッシュ大統領がCIA長官時代にその手先となり、キューバカストロ政権やニカラグアのサンディニスタ政権など中米・カリブ海の左派政権の攪乱に協力していた。だが、キューバの二重スパイとなった疑いがもたれている。」 考えて見ればノリエガ将軍は、多くの 『アメリカの敵』 同様、もともとアメリカに見出されて訓練され、その国益のために働かされた挙句に捨てられると云う、お決まりのルートに乗ったのが運の尽き。 ⇒ PANAMA: THE RESUMÉ OF MANUEL NORIEGA, THE MOST FAMOUS GRADUATE OF THE SCHOOL OF THE AMERICAS 悪名高きSOA (= School of the Americas, 現 西半球安全保障協力研究所 (ウィキペディア)) の優秀な卒業生です。


なおアメリカは1983年、カリブ海の小国グレナダにも侵攻。 グレナダ侵攻 (ウィキペディア) では以下紹介されています;

  • −−−この侵攻はイギリスやトリニダード・トバゴ、カナダの強い批判を受け、国連総会では「国際法の破廉恥な侵害」として非難された。 (中略)


全くふざけた国です。